朱子学は、性即理→格物致知→知先行後。
陽明学は、心即理→致良知→知行合一
王守仁の学説についてもう少し話します。
朱子は性即理と述べ、理気二元論に立脚してさまざまなことを学んで世界の理について知り、それがわかったら行動すればいいと考えました。
知ること、学ぶことが優先され、行動はその後でいい、「知先行後」という考え方です。
それに対して王守仁は、理は心にあると考えました。
その心の中には良知があると。
人間の本性にはよい知恵があるのだ。
自分自身をきちんと把握すればよい知恵に至るのである。
だから自分の気持ちこそが大切なのであって、自分の気持ちに正直に行動すればいい。
格物致知などといって、あれもこれもその本質まで考えていたら、人間は何も行動できない。
そのように考えて、王守仁は「知行合一」を主張しました。
学んだら即行動せよ、という教えです。
竹林と向き合うこと7日7晩、というエピソードは王守仁が朱子の論理を批判するために、つくったものだと考えられています。
国会中継などで、議員の指摘に対して官僚が答える際の定番となっている言葉があります。
「先生のご指摘はよくわかりました。十分に勉強して善処いたします」
もちろん何もしないことの代名詞になっているセリフです。
このように「勉強する時間」を言い訳にして、中国の明代の朱子学者は実践をおろそかにしました。
さらに、学問をよい政治に役立てる行動の武器にするのではなく、自分の立身出世と保身のために、「格物致知」の論理を悪用する風潮が目立ち始めていました。
王守仁は、その風潮を批判するとともに、朱子の学問の不完全さを是正することを目指しました。
王守仁の学問は、その意味では、朱子という巨人の肩に乗って、彼を乗り越えようとしたものでした。
古今東西の哲学者が、いつも先達の哲学を超えようとしたのと同様に。
なお朱子学と陽明学は、明の時代以降、中国が社会主義政権となるまで、中国の思想界の中心に位置していました。
また日本では、後醍醐天皇が朱子学を熱心に学び、江戸幕府の統治理論の中心には朱子学が置かれました。
王守仁の陽明学は大きな潮流にはなりませんでした。
付記すれば朱子の曾孫の朱潜(1194-1260)は、モンゴルの征服を恐れて1224年に高麗に亡命しています(新安朱氏)。
そして高麗に続く李王朝では、朱子学が国を治める思想として19世紀の末期まで、大きな影響を朝鮮に与え続けました。
林羅山(1583-1657)に始まる江戸幕府の大学頭(だいがくのかみ)、林家はこの朝鮮の朱子学を熱心に学び続けたのです。
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