【お寺の掲示板102】「正しさに依存させる」のがカルトの恐ろしさ安勝寺(福岡) 投稿者:@hiro5936 [2022年7月2日] 

戦前の宗教弾圧の歴史もあって、日本ではカルト規制に及び腰に見えます。カルトの恐ろしさは、洗脳により正しさに依存させることにあります。この陥穽(かんせい)にはまらないための教えが、仏教には含まれています。(解説/僧侶 江田智昭)

よりどころは、法(教え)と自(自分)の両方に

 今回は、真宗大谷派僧侶の安田理深師(1900~82)の言葉です。

 政治と宗教の問題が連日、新聞や雑誌、テレビのニュース番組やワイドショーでクローズアップされています。お釈迦さまのおっしゃる通り、人生は「一切皆苦」(自分の思い通りにはならない)。そのため、いつの時代も苦悩を抱え、宗教に救いを求める人が後を絶つことはありません。

 宗教と関わる際に覚えておいてほしいことは、どんな宗教に入ったところで悩みが完全に消えることはないということです。『仏説無量寿経』の中に「身自ら之を当(う)くるに、代わる者あることなし」という言葉があります。これは、「人生の中で苦しみに出合っても、決して誰も引き受けてはくれず、自分で引き受けなければならない」という意味であり、結局のところ、何にすがったとしても、苦悩から完全に逃れることは困難なのです。

 ところが、生真面目な人ほど人生の明確な目的や完璧な正しさを模索し、苦悩の完全な解決を求めます。これらの課題に対する明確な答えを提示する宗教もあるかもしれませんが、そのような宗教を信仰するのは、ある意味、「他者の正しさ」に深く依存することだといえます。

 絶対的な正しさを信じさせる洗脳に近い宗教は、いつの世も存在します。私は以前、ドイツのデュッセルドルフにある惠光寺で働いていました。ヨーロッパ内では、特にフランスなどでカルト(フランスではセクト)に対する強い規制がありました。

 日本脱カルト協会でも活動している僧侶の瓜生崇師が、著書『なぜ人はカルトに惹かれるのか――脱会支援の現場から』(法蔵館)の中で次のようにおっしゃっていました。

思えば人生は迷いと選択の連続で、今まで様々なことに迷い、そのたびにその自分の決断を喜んだり、悔やんだり、苦しんだりしてきた。決断はそれが重いものであればあるほど苦しいものである。そして、自分の決断はすべて自分の人生の中で責任を取らなければならず、代わってくれる人はいない。ところがカルトに与えられた答えによって「正しさに依存」すると、この決断の責任を自分で取らなくてもよくなるのだ。

 人間は追い詰められれば追い詰められるほど、どうしても現実逃避したくなります。そして、自ら考えて選択を行うことが嫌になり、何かに依存したくなる気持ちは理解できます。

 お釈迦さまは亡くなる直前、弟子たちに向かって、「自灯明(じとうみょう)法灯明(ほうとうみょう)」の教えを説きました。これは、「自分(自)」と「教え(法)」をよりどころにして生きていきなさいということです。教え(法)をよりどころにすることは当然説くとして、「自分もよりどころにしなさい」とおっしゃったのは大変興味深いことだと思います。

 煩悩から離れられない自分をよりどころにすることは危険を伴います。ですから、仏教の教え(法)をよりどころとして、常に自分の姿と向き合い、改めることが大切です。もちろん、このことによって、今までとは違った新たな苦悩が発生するかもしれません。しかし、たとえ悩みから離れられなくても、仏さまが見捨てることはありません。

「共に悩めることが救いです」――安田理深師は、自分の悩みそのものを引き受けて、そのままの私を救う仏(阿弥陀仏)の存在をこの言葉で示唆しています。つまり、完全に悩みを消滅させるのではなく、悩みを抱えた私をそのまま温かく救ってくれる仏がいることを伝えているのです。

 ですから、人びとに安心して共に悩む場を提供することが仏教やお寺の役割の一つだといえるかもしれません。ちなみに、日本の仏教界では「自死・自殺に向き合う僧侶の会」など、人びとの苦悩に応えるための会が多数存在し、さまざまな宗派の僧侶が熱心に活動しています。大きな悩みを抱えている方は、そのような場で相談してみてはいかがでしょうか。