だから、すべては運だなどと考えてはいけない。それは甘えだ。たとえ裕福な家庭に生まれなくても、必死に頑張って成功した者も多い。自分の置かれた場所や条件の下で努力すべきだ。すべては自己責任なんだ。
――この種のお説教を小さい頃から浴び続けてきた学生たちは、「運命」や「定め」といった重苦しい言葉ではなく、「ガチャ」という、これ以上ないほど軽い言葉によって、きれいごとを突き放してみせる。
彼らの手にはいつもスマホがあって、そのなかで回るガチャが、自分の人生の寓意(ぐうい)になっている。これは、一歩引いたところから自分や社会を捉える諧謔(かいぎゃく)であり、皮肉であり、同時に、深い諦念でもあるように思われる。
すべては個々人の意志や努力次第であると嘯(うそぶ)き、「めぐり合わせ」や「運」の存在を軽視ないし否定する向きに対して、倫理学者のバーナード・ウィリアムズ(1929―2003)は大きな疑問符を投げかける者のひとりだ。彼は、運の要素を分かちがたく含む私たちの人生の歩みを次のような言葉で表現している。
「いかなる意志の産物も、意志の産物でないものによって取り囲まれ、支えられ、部分的にはそれらによって構成されており、それらは一個の網の目を形成している。人間の行為者としての履歴は、そうした網の目にほかならない。」(ウィリアムズ「道徳的な運」、訳・鶴田尚美、『道徳的な運』)
自分の意志が及ばないもの、自分のコントロールを超え出たものを、人は「運」と呼んできた。あるいは、「運命」、さらには「ガチャ」などと呼んできた。私たちの日々の行為の大半は、運の要素とそうでないものの網の目として捉えることができる。そして、そのような「網の目」こそが、個々の人生の実質やアイデンティティをかたちづくっている。
たとえば、自分があのときこの進路を選び、この職業に就き、この人と結婚したこと等々は、それぞれ自分の意志によるものだろうか。それとも、めぐり合わせによるものだろうか。そこに明確な線引きを行うことはできないだろう。たとえば、同じく倫理学者の竹内整一さんの著書では次のように指摘されている。
「われわれはしばしば、「今度結婚することになりました」とか「就職することになりました」という言い方をするが、そうした表現には、いかに当人「みずから」の意志や努力で決断・実行したことであっても、それはある「おのずから」の働きでそう“成ったのだ“と受けとめるような受けとめ方があることを示しているだろう。」(竹内整一『「おのずから」と「みずから」――日本思想の基層』)