豊田章男自工会が「ジャパンモビリティショー」への変革を断行したのは、こうした一連の動きが背景にある。

 さて、それでは東京モーターショーがジャパンンモビリティショーに名称変更したからといって中身まで本当に“生まれ変わるのか”、という疑問も当然浮かぶ。

隆盛を極めたモーターショーだが
集客は「右肩下がり」に

 ここで少し、歴史を振り返ろう。

 実は東京モーターショーには、筆者にとっても大きな因縁がある。東京モーターショーの前身は「全日本自動車ショウ」として1954年に第1回が開催されているのだが、それは筆者の古巣である日刊自動車新聞社が1932年に日本初の自動車展を東京・日比谷公園で開催し以降毎年開催していたものを、1954年に自動車メーカー団体に開催権を譲って実施されたものなのだ。

 東京・日比谷公園で開催されていた「全日本自動車ショウ」は、その後会場を後楽園から晴海・東京国際見本市会場に移し、名称も第11回(1964年)から「東京モーターショー」に変更された。会場はさらに千葉・幕張メッセ、東京ビッグサイトへと移り替わっていった。

 この間、日本のモータリゼーションの急速な進展とともに、東京モーターショーは「クルマの祭典」として大盛況となった。晴海会場時代は肝心のクルマが見られず、人混みに埋もれるほどだった。また、「カメラ小僧」と呼ばれた、クルマだけでなくコンパニオン目当ての素人カメラマンであふれていたのもその頃である。