パワハラは自らの“快”のために
他者を傷つける行為にすぎない
そもそも、パワハラが起こる構造は、人が他者を叱りたくなる行動原理と酷似しているという。
「私は著書のなかで、叱る行為を『ネガティブな感情体験を相手に与えることで、自分の思い通りにコントロールすること』と定義しましたが、これはパワハラの構造と似ていると考えます。実は、人間にとって叱ることは、処罰感情を充足させることができる、甘美な報酬の一つ。部下にパワハラをして苦痛を与える上司もまた、その行動によって“快”を得ている可能性があります」
村中氏は、「叱る依存」を医学的な意味での依存症と同列に捉えているわけではない。だが、一度叱ることのよろこびを知ったあと、何度も繰り返してしまう場合は、依存症に似たメカニズムに陥っている可能性があるという。
「医学的に依存症は、一度得た“快”の体験が、つらくてたまらない日常から一瞬でも解放してくれる場合に起きやすいと考えられています。本来、満ち足りた生活をしている人は、一度ドラッグを打ったからといって依存症にはならないもの。つまり、相手に苦痛を与える行為を繰り返す人は、その人自身が抱える受け入れがたい現実やストレスから抜け出すために、依存的に部下を指導しているのかもしれません」
とはいえ、他者を叱っているとき、自分のなかの欲求を満たしていると自覚している人は少ないという。
「叱っている人の多くは、『相手の成長のために心を鬼にして怒っているんだ』と、さも自分が正義の執行者のような感覚にあります。パワハラも、内容を業務に絡めてしまえば『部下の指導のため』と自己解釈できるので、同じことでしょう。そして、一度うまみを知ってしまった快をまた得るために、他者のあらを探し続けていくのです」
パワハラは、「相手のため」と自分を正当化させ、自分の欲求のために他者を傷つける行為にすぎないのだ。