ハイコンテクストな日本のコミュニケーション
中野 編集の方のお話だと、今、コミュニケーションに関する本が売れているようです。みなさん、コミュニケーションに関して、悩んでるんですよね。鴻上さんの見立てでは、どうしてだと思いますか?
鴻上 僕の言葉で言うと、日本人が生きてきた「世間」が中途半端に壊れてきているからだと思います。「世間」とは、現在、もしくは将来の自分に関係のある人たち。学校のクラスメイトや会社の同僚、地域のサークルや親しい近所の人など自分が知っている人達によって作られている世界です。「世間」の反対語は「社会」だと僕は言ってるんですが、「社会」というのは現在も未来も何の関係もない人達で構成された世界です。道ですれ違った人とか、たまたま入ったコンビニの店員さん、電車で隣に座った人など、自分の知らない人達が作っている世界。日本人の多くは「世間」に生きて、「社会」とは接点が少ないのです。日本人は自分に関係のない「社会」の人とはなるべく関わらず、同時に関わり方がわからず、自分と関係のある「世間」の人を大切にします。結果、圧倒的に「世間」の中でしかコミュニケーションしていないんですが、この「世間」がどんどん中途半端に壊れてきているんです。
僕がよく例に出すのは、NHK紅白歌合戦。前の東京オリンピックがあった前年の1963年(昭和38年)には、視聴率はなんと81.3%もあったんです。それを頂点に1980年代前半までは、75%前後を維持していました。若い奴は信じませんが、ほぼ全部の歌をみんな歌えました。みんなが同じものを見て楽しんでいたんです。そんな時代は(本当は自分を抑えていた人が確実にいたでしょうが)コミュニケーションの断絶に悩んでいなくて、ツーと言えばカーで、なんとなくわかってしまっていた。
しかし、今は、大晦日に紅白歌合戦を見るかどうかだけでなく、そもそも、テレビを見るかどうか、動画をネットで見るかなど視聴行為だけみても多様化してきています。「同質であること」を維持できなくなっているんです。けれど、コミュニケーションのやり方は今までの「世間」のものを応用しているから、あちこちで軋(きし)みが生まれてしまっている。さらに、もう一方の「社会」とどう繋がっていいのかわからないまま、みんなが混乱して、なんとかしようと新たなコミュニケーションのやり方を探して、そういう本を求めているんじゃないかな。
中野 そうなんですね。私はずっと、人間がどうして個の意志と集団の意志が並列に存在する「不完全な社会性」しか持たず、共同体が一個体であるかのように振る舞う蟻や蜂のような「真社会性」を持たないんだろうと思っているんです。
鴻上 蟻や蜂は、すごく頑張って従う個体もいれば、全く働かない個体が二割くらいいて、働く蟻がバーンアウトしたり、動かなくなった時には、働かない蟻が登場して働きだすって言いますよね。
中野 個が「意志をもって働かない」のでなく、単に働かない蟻は、全体のバッファーの役割なんです。繰り返しになりますが、蟻や蜂は巣の全体が一つの生き物みたいなものなんです。