8カ国語を操り、おそるべき読書家だった江沢民
私は上海外国語大学の日本語科出身なので、自然に、江氏の外国語の語学力に関心を持った。メディアの報道を見ると、江氏は8カ国語ができたという。
英語とロシア語には精通している。ルーマニア語は3番目にできる外国語だ。スペイン語、日本語、フランス語、ドイツ語は一般のコミュニケーションに対応できるほどだ。それに、珍しくパキスタンとインドで通用するウルドゥー語もしゃべれるという。
上海で市長と党書記を務めていたとき、江氏の蔵書は3000冊ほどあった。この蔵書の数は、上海のトップとして、81年から85年まで上海市長だった汪道涵氏(1915~2005年)に次ぐ2位だった。江氏のスタッフは、彼のためにワシントン・ポスト紙などいくつかの英字紙を購読し、ロシア語の新聞も読みたいとの希望が出たので、さらにロシアのプラウダ紙を追加したという。
本は、決して飾り物ではなく、公務の合間に少しでも時間があれば、音楽を聴いたり、孫と遊んだりする以外に、本を読むことが多かった。出張になると、いつもカバンに何冊か入れて、列車に乗ると、本を手に取って読む。それは江氏の出張スタイルだった。
こうした知識の吸収と蓄積、外国語の勉強と応用は首脳外交の舞台で戦力として遺憾なく発揮できたのだ。
外交で輝いた江沢民のコミュニケーション力
1997年には、ハーバード大学で英語を使って演説した。息子の母校、ドレクセル大学でも英語でスピーチした。2000年に、米中関係全国委員会などの団体が合同で開いた昼食会でも、英語で演説した。
一番輝いた舞台は、2001年の上海だった。江氏は、英語でAPEC非公式首脳会議の対話会を主催し、『2001年APEC首脳宣言』を英語で読み上げた。その席で、彼はブッシュ米大統領(当時)と英語、プーチン大統領とロシア語、小泉純一郎首相(当時)と日本語を話すなど、余裕を持っていた。
95年、ロシアを訪問した江氏は、詩人コンスタンチン・シーモノフの詩『私を待っていてください』をロシア語で情感たっぷりに朗読した。
98年、ロシア科学アカデミー・シベリア支部を訪れ、時間を節約するため、通訳を使わずにロシア語で演説した。科学技術をテーマにした内容で、「デオキシリボ核酸の二重らせん構造」という中国語でも説明が難しい言葉も含まれていた。
2001年に訪露したときは、モスクワ大学でロシア語による40分間もの講演を行い、中ロ関係の未来について歓談した。
ロシア語は米中関係にも大いに役立った。2002年に米・安全保障特別補佐官コンドリーザ・ライス氏(当時)は、ブッシュ大統領(当時)の訪中に同行した際、江氏と一曲を踊った。江氏とライス氏は互いにロシア語で話せるため、特に息が合っていた。江氏はロシア語で、「以前より若く見えるよ」とライス氏に言ったという。ロシア語は江氏にとって使いやすい外交ツールだった。
同年、江氏は 4月5日から17日にかけてチリ、アルゼンチン、ウルグアイ、ブラジル、キューバ、ベネズエラを歴訪した。最初の訪問国チリでは、江氏は国連ラテンアメリカ・カリブ経済委員会本部で、21世紀は中南米とアジアの協力の世紀であることを強調し、40分間に及ぶ演説をスペイン語で行った。
キューバでは、専用機のタラップを降りた江氏は出迎えに来たカストロ議長と抱きあい、スペイン語で「Gracias.Cómoestás,miviejoamigo(ありがとうございます。お元気ですか。古い友達」とあいさつした。会談の冒頭にも、5分間ほどのあいさつをスペイン語で行い、カストロ議長を喜ばせた。
現地の報道(「Far Eastern Economic Review」 01年4月19日号)によれば、江氏は1996年にスペインへの公式訪問後に、スペイン語の学習を始めたという。日本では、「このような報道からも、中国が中南米との関係強化に意欲的であることがうかがえる」と名古屋文理大学・内多允教授(2001年、肩書きは当時)が評価している。
他の外国語の勉強とは異なり、スペイン語はラテンアメリカ諸国を訪問するために急いで習得したものだった。当時75歳になっていた江氏は、外務省の若い通訳から7、8週間の週末をかけてスペイン語を学んでいた。後に大使になったこの通訳によると、江氏は非常に熱心に勉強し、ある単語の発音のために10回ほど練習することもあったという。生涯学習の意思を見せた好例と見ていいだろう。