広い視野を持つことと他人に対する尊厳の関係
気候変動などの問題で地球を相手にした「私たち」という主語がより重要になっているにしても、「私」が最初に来ないとどうしようもない。というのも、「私は人並みだ」とうそぶいている人も、前述したように、ズームアップすればそれぞれに違う。ということは、自己認識もさることながら他人の考えていることについても、それらの差異を前提にしないと人々の考えている(象をそれぞれが触るように)見えてこないでしょう。
さらに注意すべきことがあります。個々の違いを見る習慣も、実は人の尊厳に関わってきます。尊厳を持って他人を見るかどうかで、他人の視点や考えていることへの感度が変わってくるのです。「あいつなんて人として最低だ!」と思っている人の意見を聞く気にはならないでしょう。その人の何から何までもが気に入らなければ、その人の存在に、果てはその人の意見に鈍感になります。「視野が広い(狭い)」という表現は、よく教養の有無のレベルで語られます。「教養のある人は視野がさすがに広い」と称賛されるのです。仮にその表現が正しいとすれば、教養とは他人への尊厳の持ち方を含んでいないといけません。しかし、教養を持ち出すと困惑する人も多いので、ここではあくまでも人への尊厳が鍵であることを強調しておきたいと思います。
イタリアで成功している高級ファッション企業にブルネロ・クチネリがあります。1978年創業、2021年ベースで年商900億円くらいの規模の会社で、経営も「人間主義的資本主義を実現している」と国際的に高い評価を受けています。同社の創業者は「よく経営の場でクリエイティブ力の向上がいわれるが、それは的が外れている。人には誰でもクリエイティブの力がある。その力を発揮するかどうかは、その人が人としての尊厳を受けていると感じられるかどうかだ」と語ります。尊厳を感じる環境に置かれれば、自分の解釈や見方が大事に扱われると思えるため、それを他人に伝えようとする。そして、他人の反応から丁寧に真意をくみ取ろうとする。結果、クリエイティブだと評価されるコンセプトなりができていくのです。
前回に書いた、「交際費」をもとにしたフォーマルな交流やネクタイをしたスタイルではデザインディスコースが成立しづらいというのは、以上で書いてきたことと関わるのです。フォーマルであると、およそ個人ではなく組織の論理が通用しがちです。個人の意見が2番手になってしまいます。名刺に書かれた組織に付随する名誉が(個人の尊厳より)上にきた場面で個人の表情をよく見られるのか、ということです。デザインのロジックと最も遠い所にある舞台です。ここから別の舞台に飛び移るしかないのです。
次回も、イタリアの学校教育に触れながら、このテーマを続けます。