もともと、今川と織田は通説ほど実力に格差はないし、信長の父の信秀は、今川義元より優位で東海一の弓取りだった。それに、今川の領地である駿遠参と尾張一国の石高にさほどの差はない。

 今川は名門だが織田家の主君である斯波家に比べたら格は下だ。斯波家の方が将軍家との血縁が近いからで、細川、畠山と並んで幕府の三管領の一角を占めていた。平家一門と称する織田家はその守護代として幕府でも重鎮だった。しかも、この段階で、尾張は事実上、斯波から織田に領主が代わって、幕府も認めているに等しかった(桶狭間の戦い時点での名目上の清洲城主が織田家か斯波家かは微妙だが)。

 織田信秀の弾正忠家は分家だが、実力者として尾張を仕切って三河にも進出していた。今川家の当主である義元は9歳も年下だったので歯が立たず、第一次小豆坂(岡崎市南部)の戦いで勝利した織田信秀は、刈谷の水野信元(家康の母方伯父)を味方に引き込んだ。

 信秀が死んだとき、義元は33歳で働き盛り、信長は18歳でしかなかった。だが、信長は、父親に劣らぬ才能を発揮し、尾張を統一しかねない勢いになったので、義元は予防的に征伐しようとしたのである。

 尾張の土豪の多くは信長不利とみて日和見したり、少人数の協力でお茶を濁したが、桶狭間の勝利のあとは、信長にひれ伏したから、今川以上の大軍団になった。

 一方、松平の家は中央政界につながるような名門でないし、せいぜい西三河で今川の走狗として台頭した新興勢力の一つに過ぎなかった。

 地図で見ると小さいので誤解があるが、尾張は小国ではない。太閤検地の時の数字では57万石で、三河が29万石、遠江が26万石、駿河が15万石だったから、駿遠参三カ国を併せた石高の八割もあった。

 しかも、豊臣時代の天正の大洪水までは、木曽川の本流がもっと西を流れていたので、現在の新幹線の岐阜羽島駅付近まで尾張だった(4万石ほど)。それゆえに尾張と駿遠参三カ国の差はもっと小さかったし、西三河でも刈谷の水野などは織田方だった。

 尾張は近江などと並んで早くから開発が進み、太閤検地の石高は全国4位だった。戦国時代の武将たちの実力を計るには、当時の石高を知らないと見誤ることになる。

 それも含めて、今回は、時代別の本当の石高と大名の実力、さらに戦国時代と江戸時代を理解する上で欠かせない「米」をめぐる、ほとんど知られていない意外な話を紹介したいと思う。