太閤検地では近江や尾張が
越後より石高が多かった

 大名の石高には、いろいろな誤解がある。普通に使われるのは表高であっる。これは、だいたい関ヶ原の戦いのあとしばらくたった幕政確立期に決まったもので、これを各大名の格式と負担の基準とした。

 しばしば、この表高をもって、戦国大名の実力を計ったり、また、関ヶ原の恩賞として家康が功績に応じて与えたものと誤解されているが、間違いである。

 なぜなら、まず、関ヶ原の恩賞の基準となったのは太閤検地の時のもので、その後に表高とされたものよりかなり少なかったし、地域によってその差は大きかったのである。

 そもそも、領地の大小を石高で論じるようになったのは、全国の田畑を一律の基準で評価した太閤検地からだ。

 およそ日本を中央集権的な画一化された制度で動かすようになったのは、豊臣秀吉の功績であり、それは西洋におけるナポレオンに匹敵する(拙著『令和太閤記 寧々の戦国日記』では最新の研究をもとにしつつ寧々の回想の形で秀吉の評価をしている)。

 その業績の中でも際立って大事なのが検地で、これでやっと日本経済の全体像とか、人口のかなり信頼性の高い統計が取れるようになった。

 したがって、秀吉の天下統一以前は、領地の大小は貫高で論じられたし、それも信頼性は低かった。だから、領地はだいたいの感覚で、どこそこ郡とか郷を誰それに遣わすと信長や秀吉でも言っていたのである。それが石高制になって、大名でも武士でも、同じ石高なら領地の交換があっても文句が言えなくなった。

 それでは、太閤検地での各地の石高(もう少し前の桶狭間の戦いから天下統一までの時代ともさほど違わないとみられる)を全国的に俯瞰してみよう。

 このときの全国の石高は、1850万石。最大は陸奥で167万石だが、これは、今でいえば、だいたい福島、宮城、岩手、青森という4県の合計だ。

 それを除くと実質トップなのは、近江の76万石で、武蔵、尾張、伊勢、美濃、常陸までが50万石超。そのあと、越前、上野、大和、豊後、信濃が40万石超で、越後は39万石、出羽は32万石しかない。

 だから、かつての大河ドラマ「天地人」など上杉家を描いたドラマでは、関ヶ原で負けたあと直江兼続が「120万石のうち30万石を安堵された」などというせりふを吐いていたが、その後の徳川体制の下での石高での計算だからあり得ない。

 上杉謙信は越後という大国を領する太守と誤解されているが、越後が米どころになったのは、上杉氏の会津移封後に入国した堀氏など濃尾地方出身の大名たちが、すぐれた土木技術で信濃川などの下流の低湿地を開発してからだ。

 上杉氏は、越後時代で40万石余り、会津で60万石余り、米沢で20万石くらいだっただろう。しばしば、遠州掛川で6万石だった山内一豊が、城を徳川軍に自由に使わせた報償に一気に土佐20万石に加増されたというが、土佐は太閤検地では10万石足らずだ。