大名の石高は
江戸時代初期に決まった
普通にいわれている表高は、関ヶ原の戦いのあとで、各大名が検地をやり直して、年貢を多く取れるようにかなり多めの石高を打ち出したものだ。
長州藩では、太閤検地で周防は17万石、長門は13万石で30万石だったが、関ヶ原の戦いのあとの検地では、53万石だった。これをそのまま石高にすると幕府からの賦役も大きくなるし、他大名とのバランスも悪い。そこで、広島藩が幕府の示唆で太閤検地の25%増しを表高としたのと横並びの37万石とした。
そして、この石高が江戸時代を通じて使われ、大名の格とか、軍役や普請の手伝の量を決める基準になった。
ただ、新田開発が進んで実態との乖離(かいり)が生じた際には、希望しての変更もあった。先に紹介した越後など日本海側では新田開発が進んだので、弘前藩とか新発田藩は5万石を10万石に表高を直した(弘前藩の実態は29万石だった)。
また、取り潰されて家名が消えるリスクをなくすとか、跡目争いでのお家騒動を回避するために、分家を創って、検地で打ち出した増加分のうち1万石だけを充てるという方法も取られた。「米沢新田藩」などといったのはこの手法を使ったものである。