「つくる」ことで、頭の外に飛び出す

 このような予定調和の思考を破るのが「つくる」ことです。何かを具体的な「かたち」として世界に押し出すと、現実が動き、その現実が人の感情を揺らし、思わぬ行動を誘発します。周囲の環境とぶつかって調和や非調和が生まれます。それらを全身で感じることで、自分自身も変容し、未知の状況に対する理解が進みます。こうして体全体で世界と対話することが、本当の意味での「考える」ではないでしょうか。

 身近な例として「料理」の場面を想像してみます。失敗なく料理を完成させるのが目的なら、PLAN(レシピ)からDO(調理)へのステップを踏めば間違いありません。唐揚げを作ろうとスーパーに行けば、レシピに書かれている「既にカットされた鶏もも肉」という情報通りの材料が入手できますし、レシピの手順をトレースするように衣を付けたり揚げたりすれば、完成写真のままの唐揚げが完成します。

 しかし、料理の目的を自分なりの特別なおいしさを生み出すことと考えると、この方法ではそこにたどり着けません。そこで、「つくる」ことで、自分なりに「考える」アプローチが大切になります。
 例えば、丸鶏から調理してみる──。丸鶏には「鶏もも肉」という断片化された情報はありません。自ら包丁を握って鶏全体と格闘する過程で、体に張り付く皮や、脂身の存在とその姿に気が付き・感じ、はたまた骨の付き方や、包丁の切りにくさからくる肉の繊維の方向性に至るまで、さまざまな情報を体感値として獲得していくはずです。これが生きた鶏なら、締めたり、羽根をむしったりと、さらに日々の生活ではなかなか経験したことのない作業も加わります。こうした実践は「計画の遂行」とは異質です。対象を全身で感じながら「つくる」ことが、既知を揺るがし、「鶏とは?」「食べるとは?」という未知へと思考を導きます。「つくる」ことは、思いも寄らなかった視点を獲得し、思考を頭の外側に飛躍させる方法なのです。

「つくる」は、計画外の事象も呼び寄せます。陶芸では、土をこね、成形し、釉薬(ゆうやく)を掛け、焼成して器を作ります。焼成前は、同じ土、同じ形、同じ釉薬がかかった器も、窯の中で釉薬が変性すると、色や風合いに個性が生まれます。窯の中の状態は人間が完全にコントロールできるわけではないので、時には作家の想定から大きく外れた個体も生まれます。これは、失敗でしょうか? むしろ、人間の想定の外部にある自然の「原理」が、ある種の「かたち」として目の前に現れたといえないでしょうか? 「つくる」ことが、本質がふと顔をのぞかせてくれる貴重な瞬間をもたらすのです。

 未知は見えません。だからこそ「つくる」ことを通じて世界に問い掛け、状況と対話し、考えを深めていくことでしか、そこに近づけません。このようにいうと、「PLANとDOを繰り返し、トライ&エラーのサイクルを回せば良い」と思われるかもしれませんが、それも少し違います。PLANの試行としてのDOは、PLAN通りになれば成功、そうでなければ失敗、という結果だけを回収する姿勢になりがちです。これでは「未知との対話」は広がりません。初めから設定した評価軸の精度を高めるためではなく、未知の状況と出合い、新しい「考える」を獲得するためにこそ「つくる」こと。PLANとDOを分断しないことが大事だと思います。