NYのトランプタワーを買い占めた森下
30億円を即決するも天井高に不満

 そんな森下自身の生涯を取り上げた書き物は存在しない。それゆえに知られていないビジネスも多い。たとえば前米大統領ドナルド・トランプが建てたトランプタワー購入も、その一つだろう。バブル絶頂期の89年10月、三菱地所がニューヨークのロックフェラー・センター・ビルを取得して話題になった。森下がトランプタワーに触手を伸ばしたのは、その2年前の出来事である。

 森下はプラザ合意後の円高を逃さず、80年代後半になると、米国進出を試みた。はじまりが米国内のゴルフ場やトランプタワーの購入だった。

 公知のようにトランプは父親の不動産業のあとを継いでホテルやカジノ、オフィスビルを建設してきた。83年2月、マンハッタンに金色に輝く、高さ202メートル、58階建ての高層ビル「トランプタワー」をオープンし、若き不動産王と称賛されるようになる。

 森下はそのトランプに近づいた。さすがにトランプタワーをまるごと買ったわけではないが、56階の3部屋、ワンフロアーを買い占めたのである。生前の森下にその件を尋ねると、アッケラカンとこう説明してくれた。

「トランプは誰の紹介だったかな、ニューヨークに絵の買い付けに行くのに、あそこのビルが便利だったんだな。いちいちホテルをとって泊まるのは大変でしょう。それで買っただけなんだよ」

 87年9月のことだ。八百屋で野菜を買うような感覚とまではいわないが、まるで値の張る高級車を何台か買っただけのような話しぶりなのである。

 当人の語る通り、この頃の森下は欧米の美術品を買い付けるため、ロンドンやニューヨークのオークションに頻繁に通った。今も昔もニューヨークのホテルの宿泊相場は高い。森下が定宿にしてきた「プラザホテル」や「ウォルドーフ・アストリア」は最低でも1泊8万円前後するが、森下の泊まるスイートルームだと50万円以上かかる。むろんアイチグループの社員を何人か引き連れてやって来るため、ホテルに10日滞在すれば、1回の訪米宿泊費だけで数百万円はくだらない。

 ニューヨーク在住の不動産ブローカーから、トランプタワーが売りに出されていると聞きつけた森下は即決した。当人の記憶によれば、当初5部屋を購入したそうだが、うち2部屋をすぐに転売し、残ったのが3部屋だったようだ。

 ティファニーの隣にあるトランプタワーは、マンハッタンの中心街に位置する。そこを拠点にすれば、どこへ行くにも便利である。が、その分購入価格も高い。売り出された部屋はそれぞれ100坪前後、300平米の広さがあった。日本円にして1部屋あたり10億円もしたという。つまり30億円の買い物なのである。

バブル期にNYトランプタワー56階を即決買い占め、「街金融の帝王」の知られざる生涯森下が所有していたトランプタワーの1室。若き不動産王時代のドナルド・トランプに紹介され、マイク・タイソンとステーキを食べたこともあった。

 ちなみに現在の相場だと、トランプタワーは当時の3倍に跳ね上がっているとされるから、100億円相当の買い物だ。トランプ自身の住まいは58階の最上階にあり、安倍晋三が第2次政権を発足させて訪米した際、そこに招かれたことでも知られている。まぶしいばかりの黄金の部屋で2人が歓談していた光景が、テレビ画面に繰り返し流れた。

 もっとも森下によれば、ビルの造りは見た目ほど豪華ではないという。202メートルの高さで58階建てだから、単純計算するとワンフロアーあたりの天井高は3メートル50センチほどしかない。東京・池袋にある高さ240メートルの「サンシャイン60」の天井高は平均4メートルだから、トランプタワーのほうがずい分低い。森下はそれがやや不満だったようだ。

 森下安道は終戦から間もなく、愛知県から東京へ上り、一代で街金融の帝王となった。戦後のカオスから高度経済成長期、さらにバブル景気とその後の失われた30年を生きてきた。日本社会の表裏を知り尽くしたバブルの王様の知られざる生涯をたどる。