狂乱のアブク景気を象徴する存在
成り上がった新興企業の創業者たち

 だが、市場の期待を裏切り、日経平均株価はそれ以上エスカレートすることはなかった。4万円間近だった株価は、むしろ年明けから下げ始め、およそ1年を経た91年初頭に暴落する。空前の好景気が消し飛んだ。その瞬間が失われた30年のはじまりとなる。日本の株価は30年以上経た今もなお、バブルの時代のそれに遠くおよばない。

 バブル期は、現在の中国のように「ジャパンマネー」が世界を席巻した時代だ。敗戦から立ち直った日本の高度経済成長の強味を著わした米社会学者エズラ・ヴォーゲルの『ジャパン・アズ・ナンバーワン』(Japan as Number One: Lessons for America)が、現実のものとなったと持て囃(はや)された。

 日本で誕生したハイテク製品が世界中で人気を呼び、金融、不動産マネーが欧米の不動産や金融資産を買い漁った。世界に誇ったその経済力を支えたのは、三井や三菱といった財閥系の企業経営者やソニーやトヨタのような巨大企業ばかりではない。バブル景気はむしろそれらを凌ぐ新たなスターを生んだ。

 リクルートの江副浩正や京セラの稲盛和夫といったベンチャー起業家が急成長した時代でもある。一方、悪役スターも数多く登場した。彼らは狂乱のアブク景気を象徴する存在としてのちにバブル紳士と称される。バブル紳士は、文字通り無名から成り上がった新興企業の創業者たちだ。ある種の流行語となったバブル紳士という言葉には、成金独特の胡散臭さが漂う。

「蝶ネクタイの会社乗っ取り屋・横井英樹」や「環太平洋のリゾート王・高橋治則」、「兜町の風雲児・中江滋樹」、さらに「浪速の借金王・末野謙一」──。多くのバブル紳士たちがユニークなニックネームを冠された。

 森下安道はバブル紳士を代表する存在といえる。貸金の厳しい取り立てゆえにマムシと呼ばれてきたことは前述したが、森下はそのビジネスの規模から「街金融の帝王」と異名をとり、経営するアイチは「バブル紳士、仕手筋の駆け込み寺」と表現された。

 イトマン事件の主役だった許永中(きょえいちゅう)や伊藤寿永光、山口組系組長から転じて仕手集団「コスモポリタン」を率いた池田保次。日本を揺るがせたあらゆるバブル紳士たちが、アイチの森下を金主として頼った。狂乱景気の終焉を迎えたあと、世間を騒がせてきた数々の経済事件の裏には、決まって森下の影がちらついたものだ。少なくとも森下を知らないバブル紳士は存在しない。決して大袈裟ではなく、森下安道は“バブルの王様”と呼ぶにふさわしい。

 絶頂期には、自家用ヘリで自ら運営する日本中のゴルフ場に出かけた。「ベルサイユ宮殿風」の豪邸に住んだだけでなく、欧米にも拠点を置き、フランスの古城をいくつも買った。7月末に恒例の誕生日パーティを終えると、家族や友人たちと欧州旅行に出かけ、1カ月近く滞在する。優雅な休暇は病に倒れるまで続いた。贅の限りを尽くしながら、本人は他のバブル紳士たちのように事件にまみれなかった。