大石みちこ『奇跡のプリマ・ドンナ オペラ歌手・三浦環の「声」を求めて』大石みちこ『奇跡のプリマ・ドンナ オペラ歌手・三浦環の「声」を求めて』(KADOKAWA、2022)の表紙 Photo by Kenichi Tsuboi

今でこそ世界の歌劇場で歌って演じる日本人オペラ歌手は増えているが、100年以上前に英ロンドンでデビューし、欧米各国で活躍した女性がいた。三浦環(1884~1946)である。詳細を記録されてしかるべき伝説的な歌手だが、なかなか本格的な評伝には恵まれなかった。そこに2022年10月、最新の評伝が登場した。著者は脚本家の大石みちこ(東京芸術大学大学院客員教授)で、全て読み終えた後の充足感は深い。近年では傑出した評伝だ(敬称略)。(コラムニスト 坪井賢一)

柴咲コウ演じる「双浦環」のモデルになった
「三浦環」とはどんな人物だったのか

 大石みちこの著作『奇跡のプリマ・ドンナ オペラ歌手・三浦環の「声」を求めて』(KADOKAWA、2022)は、三浦環について30年ぶりにプロのライターが取材してまとめた本格的で客観的な評伝だ。本書で初めて目にするのは、要所に挿入された三浦母娘の手紙20通。旧仮名遣いでやや読みにくいが、二人の体温が感じられる記録だ。

 例えば、初めてアメリカの歌劇団と契約して北米を巡業していた1919年1月20日付の母親宛ての書簡にはこう書いてあった。

「母上様/ごきげん如何ですか。(略)母上様にお金を送り度いのですけれども、旅から旅と/歩いてばかり居りますので、中々日本へ送るに都合のいいところへ参られないし、/ひまがないので困ります、いづれ米国を出立前に御送りいたします。四月の半ばに/なりましようと思ひます、二月二十日から三月の末までは一週間二千円づつになりますから大そうよろしうございます。(略)/母上もどうか食べ物丈けは注意して、お腹に虫がわかない様にしてください、(略)御国のおぢいさん・おばあさんにも四月にはお金を送りますよ。たまき」(『奇跡のプリマ・ドンナ』178ページ)

 当時で週給2000円はすごい。大正時代の1円は現在の4000円くらいの価値があるので、現在価値で週給約800万円ということになる。オペラ座の主役だからそのくらいの報酬になるのだろうが、彼女の欧米楽壇における価値の高さがわかる書簡で驚いた。

 本書が、大石みちこの脚本による作品、映画「ゲゲゲの女房」(2010)、映画「楽隊のうさぎ」(2013)、NHKドラマ「星影のワルツ」(2021)と共通するのは、劇的な物語でありながら、静謐なたたずまいであることだ。派手な世界的ソプラノ歌手の一生を静かに描いていく。急いで読み終えようとしても、母娘の手紙は思わず熟読してしまう。旧仮名遣いで読みにくいから減速するので、何度も読み返す。そうして全て読み終えた後の充足感は深い。近年では傑出した評伝だと思った。

三浦環とはどんな人物だったのか。近年ではNHK朝の連続テレビ小説『エール』で、柴咲コウ演じる「双浦環」のモデルとしても再び注目を集めた。次ページ以降、三浦環の偉業に触れ、伝記について詳しく解説していく。