日本でもファンが多い世界最高峰の楽団、ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団。実は、その運営手法は音楽界でも極めて珍しい。民主主義を徹底し、演奏プログラムや奏者の報酬を「投票」で決めている。自ら意思決定を行うことで、180年間さまざまな苦難を乗り越えてきたのだ。渋谷ゆう子氏の著書『ウィーン・フィルの哲学』(NHK出版)から、その成り立ちと実態をひも解いていこう。今回は、1997年まで同楽団に女性奏者が在籍していなかった理由と、そこから方針転換した背景について解説する。
なぜ女性奏者がいなかったのか
ウィーン・フィルがもっとも遅れていたのはジェンダーバランスの問題だ。驚かれるかもしれないが、女性奏者の正会員採用が始まったのは1997年のことである。創設以来、奏者たちは「フィルハーモニカー」と呼ばれていた。これは他のオーケストラと一線を画すという音楽的賛辞を含む呼称だが、ドイツ語の男性名詞である。
男女の雇用機会均等が世界のスタンダードとなり、1980年代にはオーストリアを含む欧米各国ですでに女性雇用におけるガイドラインや法律が制定されていた。
もちろん当のウィーン・フィルも、奏者に力量があれば男女問わず採用したいという意向はあったようで、彼らの公式史とも言える『王たちの民主制─ウィーン・フィルハーモニー創立150年史』(1992年)の中で、著者である元楽団長のヴァイオリニスト、クレメンス・ヘルスベルクは、女性採用について「オーストリアの法律や規定とのジレンマ」があると述べている。
どういうことだろうか。オーストリアでは1990年代当時、妊娠や出産・育児に際して、公務員や教師、看護師などの職業に就く人は3年間休職でき(報酬はなし)、また必ず復職できる権利が認められていた。第二、第三子の出産を合わせれば合計6年、9年となる。一方、男性の場合は同様の権利は1年に限定されていた。
ウィーン・フィルはというと、男性奏者に対する出産育児休暇は国立歌劇場でもウィーン・フィルでも、退職者などの相応の奏者の代役が可能である場合にのみ認められていた。
休暇中はCDなどの印税収入を除いて演奏料は一切支払われず、無給での休暇を強いられる。女性奏者を採用すれば、法律どおりの休暇を与えると、人数の少ないオーケストラで何年も席を空けるメンバーを抱えることになる。国の制度が整い厳格に運用されていることが、かえって現場の首を絞めることになった。