戦術学校では、こうした考え方を基礎として航空戦術の研究が進められていく。カール・スパーツは、航空隊の存在意義を示すためには、まず理論の発展が重要だったと証言している。

「戦術や理論は、そのときの飛行機が持つ機能よりもずっと先を行っていなければならないのです。そうでなければ、航空兵器の発展など望めませんから。強い空軍を必要としていた私たちは、インパクトのある構想を描くことが大切だったのです」(肉声テープより)

 1930年代に入ると、敵国家の心臓部となる重要地点はどこかというのが焦点になった。教官たちは「ある目標を破壊すれば一つの産業の全てを破壊するか、あるいは産業生産の停止をもたらすようなボトル・ネック」の目標を選定するようになり、標的として、輸送網、工場、エネルギー資源などがあげられた。戦争活動を支える経済的・社会的な中枢を破壊することで、敵の戦争遂行能力を奪うことができると考えられるようになっていった。

 こうした戦略へと傾倒していった背景には、空軍の予算が削られ、資源が乏しくなっていたこともあげられる。当時、航空軍は“冬の時代”を過ごしていたのだ。限られた軍事資源を最大限に有効活用するための方法を探らざるを得ない状況に追い込まれていた。

 こうして戦術学校の航空戦術は、軍事施設や工場をピンポイントで狙う戦略に注力していく。それはのちに“精密爆撃”と呼ばれるようになり、太平洋戦争中に行われた日本への空爆で実行されることになる。

 敵国家の心臓部をピンポイントで狙う精密爆撃は、戦争において、どれほどの効果をもたらすのか。アーノルドら航空軍は、自分たちが追い求めてきた航空戦略を実際に試す機会を待ち続けてきた。それは航空軍の潜在能力を示すとともに、ミッチェルの戦略思想が正しかったことを証明することでもあった。

B-29があれば陸軍は必要ない
航空戦略を実際に試す機会到来

 そして、航空軍にそのチャンスが訪れたのは、1944年のことだった。アーノルドが開発を急がせてきたB-29が、実戦配備できるようになったのだ。異例の短期間で、しかも最新鋭の超大型爆撃機を開発する無謀とも言える計画。アーノルドは、30億ドルを賭けた“大博打”に勝ち、ついに日本本土への空爆を実現する唯一の切り札を手にしたのだった。敵の反撃を受けずに爆撃できるB-29ならば精密爆撃を実現できる。最大のネックだったエンジンは、安全性が確保されたと言える状態ではなかったが、対日戦線に間に合わせることが最優先された。

「アーノルドは、太平洋における日本との戦いで『よし、空軍力で単独勝利を勝ち取ろう、日本への上陸を行うことなく、私がB-29を使い、陸軍が必要とならないように確実にやってやる』と決心していました」(アメリカ国立戦争大学のマーク・クロッドフェルター教授、航空戦略・空軍史)

 航空軍の真価が問われることになる実戦の場、それが日本への空爆だった。