産業革命以降、「時間が足りない」という前代未聞の体験をするようになった
農耕の開始とともに穀物を貯蔵できるようになり、その交換に貨幣が使われるようになったのはおよそ3500年前とされる。それ以前の人類には、「食べ物がない」という恐怖はあっても、「お金がない」という体験はありえなかった。
だがその後、生きていくうえでお金はどんどん重要なものになっていく。貨幣経済では、お金がないと実際に死んでしまうのだ。こうして脳は、「食料の欠乏」と「お金の欠乏」を同じものとして扱うようになった。
貨幣経済に移行しても、ほとんどのひとは「時間がない」という体験をしたことはなかっただろう。人類史の大半において、日々は定型的な作業の繰り返しで、そのなかで成長し、結婚して子どもを産み育て、老いて死んでいった。
江戸時代でもヨーロッパの中世でも、武士や王侯貴族は戴冠や襲名、婚姻などの儀式に巨額の費用と何日(場合によっては何ヵ月)にも及ぶ長大な時間をかけてきた。そんな彼らに、「時間の欠乏」などという意識は微塵もなかったはずだ。
ところが産業革命以降、知識社会化が進むと、学校でも会社でも、決められた時間のなかで一定の作業を終わらせなければならないという要請が生まれた。当たり前と思うかもしれないが、これは人類にとってまったく新しい事態で、そもそもヒトはこのような「異常」な環境に適応するようには進化していない。
このようにして現代人は、「時間が足りない」という前代未聞の体験をするようになった。当然のことながら、脳はこれを「食べ物が足りない」「お金が足りない」と同じものとして扱った。「大事なものが足りなくなる」という経験をしたときに、脳が使いまわせる機能はそれしかないのだ。
わたしたちがいつも時間に追われているように感じるのは、時間が足りないときに、(食べ物が足りないのと同様に)脳が全力で「このままでは死んでしまう!」という警報を鳴らすからなのだ。
作家
2002年、金融小説『マネーロンダリング』(幻冬舎文庫)でデビュー。『お金持ちになれる黄金の羽根の拾い方』(幻冬舎)が30万部の大ヒット。著書に『国家破産はこわくない』(講談社+α文庫)、『幸福の「資本」論 -あなたの未来を決める「3つの資本」と「8つの人生パターン」』(ダイヤモンド社刊)、『橘玲の中国私論』の改訂文庫本『言ってはいけない中国の真実』(新潮文庫)など。最新刊は『シンプルで合理的な人生設計』(ダイヤモンド社)。毎週木曜日にメルマガ「世の中の仕組みと人生のデザイン」を配信。