甲斐の基盤固めと
信濃攻略に費やした一生
武田家といえば、源頼朝のライバルというほどの名門だった。武田家は八幡太郎義家の弟である新羅三郎義光を祖としている。常陸の武田荘を本拠にしたのが名字の由来だ。
地元でトラブルを起こし、甲斐(山梨県)に引っ越したが、一族で常陸に残った者たちから佐竹氏が出ている。鎌倉時代から甲斐の守護であることが多かったが、一族での勢力争いが激しく、強力な支配を確立したのは、信玄の父である信虎の代になってからだ。
だが、信虎の支配が強引すぎたので、家臣がクーデターを起こし、嫡男だった信玄が担ぎ上げられて当主になったのが21歳の1541年である。それから、1573年に53歳で死ぬまで、信玄の一生は、甲斐の基盤固めに加えて、そのほとんどが信濃攻略に費やされた。とくに、1547年から小笠原・村上両氏を攻め始め、その余波で1553年から5度にわたって川中島で上杉謙信と戦っている。
信長が19歳で家督を継いだのが1552年、桶狭間の戦いが1560年、尾張統一が1563年、美濃攻略が1567年であるから、信玄は信長よりかなり恵まれた出発点だった。だが、信濃攻略に時間をかけてしまった。
そして、1565年に美濃攻略がかなり進展して、東濃で国境を接することになったことを踏まえ、信玄は同盟の相手を今川氏から織田氏に乗り換えた。
このとき、今川義元の娘をめとっていた嫡男の義信(母は公家の三条氏)を廃嫡して、信長の養女(東美濃の国衆である遠山直廉と信長の妹の子)と結婚した庶子の勝頼(母は諏訪氏)を後継者にした(勝頼の子の信勝は、信長の孫であるにもかかわらず天目山で勝頼とともに織田軍に追い詰められて自刃することになる)。さらに、信長の長男である信忠と信玄の娘である松姫(のちの見性院)が婚約している。
信長との同盟に対する信玄の思い入れが、信長の天下を前提にして正室と破綻していたわけでもなさそうなのに、嫡男を犠牲にしてまで後継者を変更したのである。
そして、1567年によく知られる今川氏による駿河から塩を送ることを止める事件があり対立が先鋭化し、1568年から翌年にかけて家康と手を組んで、今川家を攻めて駿河を攻略した。
信玄は信長の家臣となったわけではないが、それは家康とて同様である。信長の家来でないが、信長優位のもとで、信玄と家康はどちらも従属的な同盟者となったわけである。