港町や宿場町を兼ねるのを嫌がり
内陸部を好んだ家康
ところが、家康の趣味は少し違った。場所も海から数キロ離れた場所を好んだし、大規模な港町や宿場町は避け、武士が主として住み、それを支える最低限の商業機能を持つ町を好んだ。
家康の居城のうち、岡崎は先祖からの継承だし、伏見は秀吉からの継承だ。江戸は淀川河口に近い丘陵地の先端部である大坂に似た場所だというので、秀吉の指示で選んだものだ。当時は今の隅田川が利根川の河口部だったからそっくりな地形で、まさに大坂の弟分だった。
もし、家康が自由に選ぶなら、川越、石神井、世田谷、甘縄(鎌倉の内陸部)あたりが、好みに合ったような気がする。そのせいか、家康は趣味に合わない江戸に住むのを嫌い、滞在日数も合計で5年間くらいだけだ。
それに対して、家康自身が選んだのは、浜松であり、駿府だ。海から数キロ離れて、港湾機能はない。
隠居所には、最初、三島も候補だったが、駿府に落ち着いた。幼少期を過ごした故郷であり、江戸とほどほどの距離、街道筋で大名があいさつに立ち寄りやすい、気候が良い、それから米がうまいというのも理由に挙げられた。清水港に近いところなどという配慮はなかった。
また、家康が自分の子供のために選んだ越後高田(上越市)や名古屋も同様だ。特に、高田について見ると、上杉景勝の会津移封のあと越後の国主となった豊臣大名の堀秀治は、最初、上杉謙信の居城だった春日山城の城下町を惣堀で囲んだが、しばらくして、直江津の海岸に福島城を築いて引っ越した。