家康時代に始まった英王室との交流、400年前に考案された「過酷すぎる航路」とはPhoto:PIXTA

400年以上前から始まった
日本とイギリスの交流

 イギリスと日本の交流が、始まったのは1611年のことである。駿府(静岡市)にいた大御所・徳川家康の元に、ジェームズ1世から使者がやってきたことに始まり、エリザベス女王も訪日のスピーチで触れられたが、ほとんどの人が知らないだろう。

 さらに、その時に話し合われたのが、イギリスからカナダの北側の北極海やベーリング海峡を通る直行航路を開発する壮大な計画だったのだから驚きである。

 5月7日のNHK大河ドラマ「どうする家康」は、三方ヶ原の戦いで家康が人生最悪の挫折を味わった話だったが、それは少し横に置いて今回は、チャールズ国王の戴冠式がロンドンのウェストミンスター寺院で5月6日に華やかに挙行されたばかりなので、同じ静岡県が舞台だった日英交流事始めを取り上げる。

 あわせて、徳川家康の外交政策を論じたい。鎖国は2代将軍秀忠の治世に始まり3代将軍家光の治世に確立したが、もしも家康がもっと長く生きていたら、果たして鎖国を行っていたのかどうかについても考えてみたい。

 オランダが1602年の東インド会社設立に先だって派遣したリーフデ号が1600年、豊後に漂着した。船長のヤコブ・クワッケルナック、航海士のイギリス人ウィリアム・アダムス、オランダ人ヤン・ヨーステンらが乗っていた。

 これがオランダとの交流のきっかけになるのだが、アダムスは三浦按針という名を与えられ、家康の通訳・外交顧問となり、イギリスにも手紙を書いて、家康が通商を望んでいると伝えた。そこで、イギリス東インド会社は、ジェームズ1世の国書を持ったジョン・セーリスを1611年に日本に派遣した。

 その時、イギリスから提案したのは、なんとカナダから北極海、ベーリング海峡を経て日本に至る航路を開発することだったのだが、そのあたりは、『英国王室と日本人:華麗なるロイヤルファミリーの物語』(小学館、八幡和郎・篠塚隆)に詳しく紹介している。

 だが、この話をより深く理解するためには、南蛮船がやってきたときからの流れのなかに位置付ける必要がある。