「3」は神秘的?
「数を数える」概念と商業の誕生

対談風景

高野 うーん、「そういう考え方ものあるのかと」は思いますが、その数字に説得性があるかどうかは正直わからないんですよね。ぴんとこないというか。

 数字や数学に対してどれだけ信頼を寄せているか。そこに文系と理系の文化の断絶があるんですね。

高野 文系は数字が苦手な人の集まりなので、数字が身近ではないんですね。

 物理学者はやっぱり、雑多な現象の中で単純な数字が見つかると、本当の数字を見つけた気になるんですよ。

高野 本当の数字、ですか。

 科学の源流のひとつは、ピタゴラスといいますよね。もっと昔はシュメール人(現在のイラク南部で栄えた、古代メソポタミア文明の初期を担った人々)じゃないかと思いますが、世の中の根本原理は素数でできていて、素数の並びは意味があると、ピタゴラスは言っている。割り切れる数と割り切れない数があるのはなぜか? これはなぜ6つしかないのか? といったふうに、数自体に神秘を見いだす。数には自然界の神秘が表されているんだと。生物学の人はわかりませんが、素粒子論の人に聞くと、実は今でもそうした考えは続いていると言う。

「美しいものは真実だ」という考えが人間にはあるのではないかと思います。何か複雑なメカニズムを解明する中で、数字の規則の美しさを見つけると、世の中を理解した気になるというのが、我々の特徴なんです。そういうのは文系にもありませんか? これがあれば納得できる、というものは。

高野 そうですね、文系は「説得力」というぼんやりしたものかもしれません。やはり、その説がシンプルであればあるほど、納得はしやすい気がしますよね。条件付きの説明ではなくて、シンプルに説明できるもの。もちろん論理に基づかないといけないのですが、論理学的な厳密さというよりは説得力ですよね。

 それで思い出したのですが、世界には「3」以上を数えられない民族が複数います。南米のアマゾンやニューギニアなど。人間も動物も、生物的に数えられる数は2か3までという説もありますよね。

 「1」「2」の次は「たくさん」。猫も、子猫が5匹いると1匹は認識できないという話もありますよね。

高野 言語に数詞があることで、人間は数を数えられるようになった。人間は、数という概念や言葉を知っているために言語的に暗記しているだけで。

 これは南米のアマゾンへ行くと、すごく実感できるんですよ。アマゾンにピダハンという民族がいて、彼らは3を数えることができない。ジャングルには膨大な数の生き物がいます。そうしたものに囲まれて暮らしていると「数える」ということをしなくなる。例えば魚ひとつとっても、それぞれ大きさも形も違うので、数えることに意味がないんです。

 「3」もあやしいとなると、「3」という数が神秘的になるんでしょうね。宗教でも「3」が重要な数として扱われることが多い気がします。ひょっとして、それ以上数えるのは、商業と関係があるのですか? そういう民族は、商業は発達しないのでしょうか?

高野 そうですね。先ほど少しお話が出たシュメール人の文明を調べてみると、文字が初めて登場した地域は、ウルクという都市とされているのですが、最初の文字というのは、家畜を数えるために考えられたらしいのです。

 先ほどの魚の例と同じで、家畜の市場のようなところへ行くと、「1頭いくら」で売っていない。なぜなら、それぞれ、大きさも違えば肉付きも違う。年齢やオスかメスかによっても値段が変わってくる。実際に飼っている人たちもそうした(数で売るという)認識はないと思うんですよ。

 でもどこかで、そうした個体の特徴を度外視した、普遍性を見いださなければならない状況が生まれる。あくまで臆測ですが、例えば、国家的な統制です。税として家畜を出せとなると、国は細かな注文を言っていられないので、一括して「牛を3頭出しなさい」となるかもしれない。

 あるいは、顔が見えない関係においてです。遠方との取引で、「うちはこれだけの食料を送るから、お前のところは牛をくれ」となると、数で指定せざるを得なくなる。

 顔が見える範囲を超えると、普遍的なものというか、画一的なものが生まれる。そこから数という概念が生まれたのではないかと、ぼんやりと考えているんです。

 商業に、遠方のビジネスや上からの権力が加わったことで、人は数を認識するようになったと。貨幣の発生もそうかもしれないですね。

高野 そうですね。天然のものに数は生まれない気がするんですよね。

 一度そうした「数」の概念が生まれると、商業や貨幣文化が自動的に発展していく。