平和主義の理想を
戦国ドラマに持ち込むNHK

 一方、信康が勇猛な武将としての才能があり、それを慕う家臣がいて、家康派に対する信康派が形成されていたのも事実だ。

 これは、ひとつには、ケチで慎重な家康よりも、豪放で情に厚い信康のほうが、たとえ粗暴でも戦国時代の武士には好まれたこともあるし、次世代に懸けたい若い武士などが集まるということもある。

 のちに、関白・豊臣秀次が失脚したのも、秀次の周囲に秀吉家臣団ジュニアとか、若い大名が集まって、世代交代を期待する勢力となり、彼らの若さが故の浅知恵で秀次が軽率な振る舞いをして秀吉を激怒させたのが主因のひとつだった。

 武田との内通は、瀬名については根も葉もないことではなさそうだし、信康も知らなかったわけでもあるまい。大河ドラマでは瀬名は岡崎に移ってからも家康と良い関係にあり、武田との接触は事実だが、それは織田や武田を巻き込んだ包括的な平和を実現しようという意図から出たものだったことにしたいらしい。だが、NHKが日本国憲法前文的な平和主義の理想を戦国ドラマにまで持ち込むのはいかがなものかと思う。

 家康と瀬名との関係は、桶狭間の戦いの後、良かったことは一度もなさそうだ。なにしろ、岡崎城に入れずに、郊外の別邸に住ませていたのがすべてを物語っている。両親である関口親永夫妻が、瀬名たちが三河に移ると同時に今川氏真から死に追いやられたことや、瀬名が今川義元のめいであることについては諸説あるが、瀬名が今川一門であり、両親がみじめなことになったのは間違いない。瀬名が織田に乗り換えた家康を恨んでいたのも間違いない。瀬名が、信康への代替わりを策すのは、至極当然のことだった。

 信康を切腹させようといったのが、信長なのか家康なのかについては、信康は信長の娘婿だったのだから、家康が排除せざるを得ないと信長に相談し、信長は「家康の思い通りにせよ」と答えたと考えるのが自然だろう。なお、このあたりのさまざまな推理は、拙著『令和太閤記 寧々の戦国日記』で行っている。