トルストイの『戦争と平和』、ドストエフスキーの『カラマーゾフの兄弟』、ディケンズの『デイヴィッド・コパーフィールド』、プルーストの『失われた時を求めて』。20代だったぼくは、長い小説から順に読んでいこうとばかりに、一時期、長篇小説ばかりを読んでいたときがありました。

 小説のなかの具体的なことはほとんど覚えていないのです。主人公の名前すら、思い出せません。けれど、千ページの、なかには五千ページ以上の本を読み続けていた時間は、いまでもぼくを支え続けています。それくらい長篇小説のなかには、干上がることのない、豊かな時間が流れています。

「ジャックは、妙にいやな気持ちでたまらなかった。心にもなく?をついているような気持ちで、ほんとのことを言おうとすればするほど、ますますそれから遠ざかっていきそうだった。それでいて、彼の話したことには、なにひとつ不正確なことはなかった。だが、言葉のちょうしなり、煩悶についての誇張なり、打ちあけ話の選び方なり、彼にははっきり、自分が、生活についていつわりのすがたを描きだしているように思われた」(『チボー家の人々』二巻・少年園)

 長篇小説では、しばしば、こうした微に入り細を穿つ描写が続きます。

 読者はそれを読み続けていくうちに、登場人物たちが成長し、彼らが人生の選択肢を果敢に選んでいく瞬間に出会います。

 彼らのうちの何人かは本のなかで生涯を終えますが、彼らの人生に直接触れたような得も言われぬ感覚は、長く読者のこころのなかに残ります。

『チボー家の人々』を一カ月かけて読み、いまはやっと五巻の半分です。

 今年の夏は忘れられない日々になりそうです。