だましたのか、勝手にだまされたのか
世論の持つ多色性が示された
「だまされた」と書いたが、ジュン氏の心に「会見で全国民をだましてやるぜ!」というような、明確でわかりやすい邪悪の意思があったかは疑問である。
氏は「自分がどう振る舞えば、相手にどのような印象を与えられるか」を高い精度で計算できるクレバーさを備えている印象がある。
会見の真の意図は、本人が公に語っているもの(たとえば「子どもを守りたい」)だけでなく、見た人が邪推してもらうようにする(「ポジショントークを行い、妻および妻の不倫相手の社会的信用・評価を失墜させる」)など、いくつかの可能性が想定される。しかし、それがなんであれ、表に出てきている部分でくみ取れることといえば、「『会見の効果を高めるために慎ましくしていよう』程度の自戒はあったかもしれぬ」……くらいである。
だが、会見時に装着していた「素朴で・慎ましく・愛にあふれた」というよそ行きの仮面が(心理学でいうペルソナというやつで、その人の人間性の一部を表してもいる)、後日告発された暴行の様子とあまりにもかけ離れていたから、みんな「だまされた!」となった。だから、氏はやっぱりみんなをだましたとも言えるし、みんなが勝手に期待を寄せてだまされた、とも言える。“慈愛と暴力性”という、一見相反する心の作用を、同時に内在させることができるのが人間だからである。
ただ、告発記事以降、「やっぱり怪しいと思っていた」というそれまで息を潜めていた“隠れ・会見懐疑派”の声上げと、世論の主流に乗っかる形で「実はこんなにヤバかった」という氏へのネガティブな風評への後押しが見られた。「斬新で新たな試み」として評価されていた記者との対談形式の質疑応答も、ついには「時間が無駄にかかりすぎる」と悪口を言われ始める始末だ。
とにかく、告発記事の前後で世論の大勢は、ジュン氏の「支持」から「不支持」へと切り替わったのだが、その理由は「多くの人が考えを百八十度変えた」ことに加え、「勢いのある勢力がAからBに変わった」――つまり、「表立って目につくものの割合が変わったから」と説明できるのであった。
さらに付け加えると、Aが隆盛なりし時、Bは沈黙して言葉をのみ込んできたから、Aが下火になり、代わりにBが隆盛になれば、沈黙のうっぷんを晴らすべくBの勢いの強さもひとしおだ。それが今である。
本連載では度々、いかにあまのじゃくな性格であっても、世論というのものはその人の考え方に強い影響を与えてくるということを書いてきた。今回の件では、その重大な力を持つ世論がそもそもフワフワと流動的なものなので、冷静で理知的なジャッジを行う際には世論への取り扱いに自覚的な警戒が必要である。
ジュン氏への世間の評価の変遷は、世論の持つ流動性ばかりでなく、見る角度によって色が変わる“多色性”をも示していた。世論への接し方にはさらなる慎重さが必要であると、改めて考えさせられる一件となった。