アーティストに求められるのは
「沈黙は金」だけではない?
さて、本件に、筆者は令和の求めるアーティスト(ミュージシャン)像が変わってきた可能性を見た。まず、日本のアーティストは思想や主義を明らかにせず、沈黙を金として音楽の発表のみに専念するケースが多かった。自身の作品に余計(少なくとも日本ではそう捉えられがちだった)な色が付くのを避けるためで、これは慣例というべき全体的な風潮であった。
しかし、東日本震災のあとの頃からであろうか、徐々に主義や思想を表明するアーティストや、社会問題に積極的に関わろうとするアーティストが目立って増え始めた。アーティストは、それまで通り沈黙を貫く人、日常的なことなら発信する人、知名度を活かして社会問題に取り組む人など、アーティストのあり方が分化してきたのであった。
山下氏は「沈黙は金」派のアーティストで、松尾氏は情報発信していく派のアーティストだ。
山下氏が結論した「沈黙は金」とするその身の振り方については、まず昭和から慣例となってきた「ミュージシャンはこうあるべきだ」というイメージが密接に関連し作用したであろうことを、ここに指摘したい。
また筆者は、世間から求められるアーティスト像が「沈黙は金」から、令和に至って「動くべき時は動くべし」に変わってきているのではないか、という可能性を見た。
この炎上が収まるには今しばらくかかるであろうが、音楽をかじっていた身としては山下達郎も松尾潔も、通り一遍の憧れでは済まされない熱意でもって追いかけてきた、偉大なきら星のごときミュージシャンである。騒動が、紆余(うよ)曲折ありつつも社会の理解を推進させながら最終的にこれ以上傷つく人を増やさない形で落ち着いて、2人の楽曲をまた穏やかな気持ちで聴ける日が来ることを願いたい。