演習中に下半身まひの重傷
終戦後は地獄のシベリア抑留

 石橋は39年に地元の吉野林業学校を卒業し、満州国営林署に赴任。その後、徴兵されて関東軍第1師団歩兵第57連隊に転属し、再び満州に赴任する。

関東軍第1師団歩兵第57連隊時代の石橋信夫 関東軍第1師団歩兵第57連隊時代の石橋信夫 写真提供:大和ハウス工業

 ところが、石橋は44年2月、暴走した馬がけん引していた速射砲のそりと衝突し、下半身まひの重傷を負う。軍医による懸命の治療で奇跡的に回復して戦列に復帰したものの、満州で終戦を迎える。待っていたのは、地獄のシベリア抑留だった。

 シベリア送りとなった石橋は、1000人を超える作業大隊を率いる大隊長を務めた。極寒での過酷な重労働とわずかな食料しか与えられない劣悪な環境で、死者が続出。石橋は軍刀を携え、切腹覚悟で旧ソ連側に待遇改善を訴える。

 しかし、逆に作業大隊長を解任されて監獄にぶち込まれた。拷問に耐え、収容所を転々とさせられた後、48年にようやくシベリア抑留から復員したのだった。

 石橋の不屈の魂は、壮絶な戦争体験によって、より精強となった。これが、大和ハウス躍進の原動力になったのは間違いない。