大和ハウス工業 三刀流の異端経営#5写真提供:大和ハウス工業

大和ハウス工業は1955年、シベリア抑留から復員した石橋信夫が創業した。創業当初は従業員18人だった大和ハウス工業は今や、グループ従業員約5万人、連結売上高4兆9000億円の巨大企業にのし上がった。特集『大和ハウス工業 三刀流の異端経営』(全6回)の#5では、大和ハウス工業の成長を導いた「最強経営者烈伝」をひもとく。(ダイヤモンド編集部 堀内 亮)

大和ハウス工業のルーツは
創業者生誕の地、奈良県川上村

 近鉄奈良駅から約1時間、清流、吉野川を右手に見ながら、1000メートル級の山々から成る紀伊山地の谷底を縫うように車を走らせると、大和ハウス工業の「ルーツ」にたどり着く。

「大和ハウスグループ創業者 石橋信夫翁 生誕の地」

 大和ハウスを創業した石橋信夫は1921年9月9日、奈良県吉野郡川上村で生まれた。林業を営む父茂吉、母キヨ、9人兄弟の五男だった。

 石橋の生誕から100周年に合わせ、大和ハウスは2020年9月、その功績をたたえるべく川上村寺尾地区の国道沿いに記念碑を設立している。石橋の胸像が見据える先には、石橋の生家があったとされる。その生家は今、ダム湖に沈む。

創業者石橋信夫氏の生誕100年に合わせて設立された記念碑創業者石橋信夫氏の生誕100年に合わせて設立された記念碑 Photo by Ryo Horiuchi

 寺尾地区で最長老という87歳の女性は、「石橋の家は、地元では立派な吉野建て(よしのだて)の家だったよ。ノブ(石橋)はけんかっ早くて血気盛んな男だったと母親から聞いたねえ」と記憶をたどった。

 石橋は取引先がどこであろうと物おじしない「けんか商法」で、大和ハウスの業績を拡大した。その“DNA”は、川上村ならではの特殊な環境で育まれたといえる。

 鎌倉時代と室町時代の狭間に当たる南北朝時代を巡り、川上村は再起を果たせなかった南朝・後南朝の「敗者の村」として代々伝わる。地元では毎年、後南朝系の皇子の無念を慰める儀式が執り行われていた。

 こうした悲劇の歴史は、石橋の心に深く刻まれ、反骨心につながっていった。91年10月3日付「日本経済新聞」朝刊「私の履歴書」に、石橋は「私に尋常でない闘争心があるとすれば、この村の無念さが乗り移っているに違いない」と記している。

 そして石橋の不撓不屈の魂は、壮絶な戦争体験なくしては語れない。