日本では、地位と中身が一致しない権力体制が見られるのは、何も上皇と天皇の関係だけではありません。例えば、室町幕府三代将軍の足利義満は応永元(1394)年に征夷大将軍を辞し、子の義持に譲りました。ところがその後、将軍となった義持が実権を握ったかというとそうではなく、義満が「大御所」として上位者となり、政治を動かしていたのです。将軍を退いてなお権力を維持していたわけですから、その権力自体は将軍という役職に付随するものではなく、義満という個人に付随するものだったと言えます。

源頼朝は征夷大将軍になったから
支配権を確立したわけではない

 最初にみたように、「地位」よりも「人」を優先するのが日本社会の特徴と言えます。しかし、今日の歴史学者の多くは、現代的な役職のあり方に慣れているせいか、将軍という官職には固有の中身があると見なしてしまいます。例えば、建久3(1192)年、源頼朝が朝廷から征夷大将軍に任じられます。地位と権限が一致しているならば、頼朝は征夷大将軍になったから、それに伴うさまざま権限を行使できるようになったとみなすでしょう。歴史学者もそのように考えていたからこそ、この頼朝の将軍就任をもって鎌倉幕府が成立したとされていました。

 しかし、地位と権限が一致しない日本社会の特徴からすれば、征夷大将軍という役職には中身などなく、むしろ頼朝自身が実力で積み上げてきた、東国武士の棟梁という権力が先にあったと言えるでしょう。

 しかも、頼朝は建久5(1194)年、あれだけ欲しがっていた征夷大将軍をあっさりと辞任しているのです。頼朝が征夷大将軍だったのはわずか二年余りのことでした。その後、建久10(1199)年に急死するまで、頼朝は鎌倉幕府のトップであり、武家のトップであり続けました。つまり征夷大将軍でなくとも、幕府のトップであることに変わりはなかったわけです。

 さらに大事なのは、頼朝の子・頼家の場合です。1199年に頼朝が急死すると、子の頼家が武士たちの棟梁、つまり「鎌倉殿」を受け継ぎます。2022年に放映された NHK大河ドラマ『鎌倉殿の13人』の「鎌倉殿」とは、頼朝ではなく頼家のことを指しています。ではそのとき、頼家は征夷大将軍になったかというと、実はなっていないのです。実際に頼家が朝廷から征夷大将軍に任命されるのは、建仁2(1202)年、つまり二代目鎌倉殿になってから3年後のことでした。