このように考えてみると、秩序が安定すると将軍が次第に神輿化していくというのは、容易に想像できるわけです。

江戸幕府が15代260年の
平和を保った理由とは

 家康自身が、徳川将軍家をどのように考えたかといえば、やはり長子相続というルールを確定したことに端的に表れているだろうと思います。

 2代将軍・秀忠の二人の息子、竹千代と国松のどちらに将軍家を継がせるかが問題になったとき、家康は年長ではあるがあまり才覚があるとは言えない竹千代を3代将軍とすることを決めました。

書影『「将軍」の日本史』(中央公論新社)『「将軍」の日本史』(中央公論新社)
本郷和人 著

 これはどういう意味を持つのか。上に立つ人間は有能である必要はなく、実務は優秀な家臣がやればいいという、将軍をただの神輿とすることを家康が決めたということです。

 また、兄弟の順番に関係なく優秀な子に後を継がせることになると、いずれお家騒動に発展し、徳川家自体が割れてしまう可能性があると、家康は考えたのだろうと思います。そのようなリスクを考えたとき、やはり神輿は自分で動く神輿ではなく、担がれるだけの神輿のままでよい。有能な人間である必要はないということに行き着きます。家康はこうして孫やその下の代まで、内紛が起きることをあらかじめ避け、ある種の平和的な解決ができるように取り決めたのです。その結果、徳川将軍家は15代の長きにわたって、存続することになりました。

 このように、先の先のことまで考えていく晩年の家康は、本当にできた人間だったのだろうと思います。