ネット上での脅迫とか罵倒とかは相手の生命力を減殺しようという「呪い」の行為ですけれど、呪いは相手に届かないと効果がない。効果がないどころか、「宛先」を見失った呪詛は呪いを発信した当人のところに戻って来るものと相場が決まっています。だから、「呪い返し」を避けるために呪いを発信する人たちは匿名を選択しているわけです。ということは、現代日本においても、みなさんは「呪詛」が効果的に機能することを知っているということです。呪いのルールにちゃんと従っている。ですから、僕も経験則に従って「鬼神を敬して之を遠ざく」で、「邪悪なもの」には近づかないようにしています。さすがに10年以上も「リプライ不読」を続けていると、「内田相手だといくら呪っても徒労だから、もう止めようか……」というふうになっているんじゃないかな。
白井:それでも変な逆恨みをする人がたくさんいます。とにかく内田の言っていることは気に食わない、けしからん、内田が日本を悪くしているから殺すしかないと妄想的に思っているような人がいても、全く不思議ではありません。内田さんが平気でいられるのは、やはり武道家であることが大きく影響しているのでしょうか。
内田:そうかも知れないです。自宅1階が道場ですからね。襲おうと思ってやって来ても玄関で「何のご用でしょうか」と門人が出てきますから。仮にそういう相手が5人、10人といるのをなぎ倒しても、2階まで駆け上がって「ラスボス」を仕留めるのは、けっこう大変だと思います。書斎には日本刀も置いてありますから、うっかり近づくとけっこう危ない(笑)。
白井:実際問題として、返り討ちに遭う可能性がかなり高い(笑)。
内田:人を襲おうという人だって、どうせやるなら費用対効果を考えて、リスクが少なく効果の多い相手を選ぶんじゃないですか。「相手は誰でもよかった」と言って、無差別的な暴力をふるうやつだって、女の人や子どもや老人、外国人や障害者のような弱い相手、あるいは社会的に孤立した、反撃されるリスクがない相手ばかり狙うじゃないですか。「無差別」といいながら、実は相手を選んでいるんです。
白井:そうですね。だから正確には無差別ではないんですよね。プロレスラーやヤクザを襲ったりしませんから。
内田:安倍さん、岸田さん、宮台さんに対する襲撃を「政治的テロリズム」と呼んでいいのかという問題もあります。僕はどれも「政治的テロリズム」の条件を満たしていないと思う。政治的テロリズムというのは、自分の政治的主張を広く世間に伝え、それを実現する合法的な手立てが他にないので、最後の手段として暴力を選ぶというもののはずです。だから、刑事罰を受ける覚悟で行なう。伝統的には、暴力を用いたその場で自死するというのがテロリストの倫理規範です。テロリストとは、自分の政治的主張を周知するために非合法的な手段を選び、その代償として自分の命を差し出す。この二つの条件を満たす者のことだと僕は思います。
明治時代、大久保利通を襲った島田一郎は「斬奸状」にはっきりと「有司専制の弊害を改め、速かに民会を興し」とテロの目的を明らかにしています。大隈重信に爆弾を投じた玄洋社の来島恒喜は大隈の進める「屈辱条約」締結反対運動の活動家であり、玄洋社の看板を背負っていた。彼らの行動の政治的意味については余人の解釈の入る余地がありません。島田は自首してのち斬首され、来島はその場で自ら首を刎ねました。これが基本だと思います。ですから、自分の行為の意味を明らかにして、かつ自分が殺す相手の命と引き換えに自分も死ぬという覚悟がない行動を「政治的テロリズム」と呼ぶわけにはゆかない。仮に行為の政治的目的が開示されていたとしても、相手を殺すだけで自分は生き延びるつもりなら、それはただの「暴力」です。独裁者が反対派を虐殺するのと変わらない。
山上被告の場合は本人が書いたと言われるTwitterの分析で動機はだいたいわかりましたけれども、それも第三者に解釈してもらって、動機を推測してもらうというものでした。でも、テロリストが自分の行動の意味を第三者の解釈に委ねるということはあるはずがない。間違った解釈をされるリスクがあるわけで、それでは行動した意味がなくなってしまう。自分自身の言葉で「私はこういう理由でこの行為に至った」という開示をしていないという点では、岸田首相に爆発物を投げた人も、宮台さんを襲撃した人も同じです。
内田 樹 , 白井 聡 (著)
定価979円
(朝日新聞出版)
何の目的かわからないまま暴力をふるったのは、無意識だとは思うけれども、自分の目的をはっきり言うことに自信がなかったからではないかと思います。自分の意図を適切に伝えるような言葉を持っていなかった。それだけ精神的に未熟だったということです。わずかな文字数のうちに自分の意図を誤解の余地なく書くというのは、かなりの知的な成熟が必要です。実際には、言いたいことのほとんどを諦めるという覚悟がないと「斬奸状」は書けない。トラウマがどうしたというような個人史的な事情なんかをつらつらと書き連ねるだけの行数はない。でも、自分の言いたいことのほとんどを諦めて、政治的意図だけに限定するという覚悟がなければ、テロリストの資格はない。
さらに言えば、どういう意図でやったのかはっきりさせないほうが、いろいろな人がああでもない、こうでもないと仮説を立ててくれる可能性がある。その方が自分の名前の被言及回数が増える。言動の軽重を「フォロワー数」や「いいね」の数で考量する習慣になじんだ人間なら、「どういう意図で行なわれたのかわからない」という方がむしろ効果的だと考えるでしょう。
事件を起こす人たちに共通しているのは、「社会的承認を得たい」ということのように見えます。繰り返し事件が言及されて、集団的記憶に自分の名前を刻み込みたいと願っている。被言及回数を増やすためには「斬奸状」を書いて、行動の意図を明らかにしない方がむしろ効果的だという無意識的な計算が働いている。そんな気がします。現に、今まさに僕たちは「何のためにやったのかわからない事件」について言及しているわけですから。
1950年東京都生まれ。神戸女学院大学名誉教授、昭和大学理事。東京大学文学部仏文科卒業、東京都立大学大学院人文科学研究科博士課程中退。専門はフランス現代思想、武道論、教育論など。神戸で哲学と武道研究のための私塾凱風館を主宰。合気道七段。『私家版・ユダヤ文化論』(文春新書)で第6回小林秀雄賞、『日本辺境論』(新潮新書)で第3回新書大賞、執筆活動全般について第3回伊丹十三賞を受賞。
1977年東京都生まれ。思想史家、政治学者。京都精華大学准教授。早稲田大学政治経済学部政治学科卒業。一橋大学大学院社会学研究科総合社会科学専攻博士後期課程単位修得退学。博士(社会学)。著書に『永続敗戦論─戦後日本の核心』(講談社+α文庫、2014年に第35回石橋湛山賞受賞、第12回角川財団学芸賞を受賞)をはじめ、『未完のレーニン─〈力〉の思想を読む』(講談社学術文庫)など多数。
※AERA dot.より転載