OGPPhoto By HasegawaKoukou

同時通訳者として、ビル・ゲイツ、デビッド・ベッカム、ダライ・ラマ、オードリー・タンなど世界のトップリーダーと至近距離で仕事をしてきた田中慶子さん。「多様性とコミュニケーション」や「生きた英語」をテーマに、現代のコミュニケーションのあり方を考えていきます。今回は、防衛省出身でサイバーセキュリティの専門家であり、数々の国際シンポジウムにも登壇しているNTTチーフ・サイバーセキュリティ・ストラテジストの松原実穂子さんを迎えた対談をお届けします。松原さんは近著『ウクライナのサイバー戦争』で、国家間のサイバー戦争における民間企業やそこで働く人々の奮闘など、普段はあまり語られることのない戦争の一面をリアルに描き出しています。対談は、サイバー攻撃の脅威をはじめ、ウクライナに学ぶ国際社会に対する協力支援の取り付け方や、サイバーのような「理解されにくいこと」を社員や人々へ伝えるにはどうしたらよいのかなど、コミュニケーションを軸に白熱しました。(文・構成:奥田由意、編集・撮影:ダイヤモンド社 編集委員 長谷川幸光)

目に見えないサイバー戦では
民間企業や一般人が最前線に立たされる

田中 今年(2023年)8月に『ウクライナのサイバー戦争』を出版されましたね。メディアに映る戦争とは別に、目に見えないところでも戦争、つまりサイバー戦争が起こっていて、実はそれが、戦況をものすごく左右する。

田中慶子さん田中慶子(たなか・けいこ)
同時通訳者。Art of Communication代表、大原美術館理事。ダライ・ラマ、テイラー・スウィフト、ビル・ゲイツ、デビッド・ベッカム、U2のBONO、オードリー・タン台湾IT担当大臣などの通訳を経験。「英語の壁を乗り越えて世界で活躍する日本人を一人でも増やすこと」をミッションに掲げ、英語コーチングやエクゼクティブコーチングも行う。著書に『不登校の女子高生が日本トップクラスの同時通訳者になれた理由』(KADOKAWA)、『新しい英語力の教室 同時通訳者が教える本当に使える英語術』(インプレス)。Voicy「田中慶子の夢を叶える英語術」を定期的に配信中

 ネットの時代なので、当たり前といえば当たり前なのですが、そのことをあらためて考えさせられ、事の重大さに圧倒されました。松原さんは、どういう思いで、何を伝えたいと思って、執筆されたのでしょうか?

松原 日本でも台湾有事への関心が高まっている今、ITがなくては生活も仕事も安全保障も成り立たない時代に、目に見えるミサイル攻撃だけでなく、視覚的に捉えにくいサイバー攻撃も大量に仕掛けられてしまう状況で、本土決戦が起きてしまうとどうなるのか、あぶり出したいと思いました。

 戦争や紛争になれば、私たちのような一般人や会社員たちも、さまざまな暴力に巻き込まれます。軍や政府だけでなく、一般人、会社員たちが、当事者として何を考え、どう行動し、サイバー戦や総力戦で戦い、生き抜いていくのか。そのことを描こうと考えたのです。

 世界中のジャーナリストが、命がけでウクライナに赴き、戦争の状況を報道しています。倒壊した家々や、かつては美しかった街並み、血まみれになって涙を流している子どもたちや妊婦、ブチャ(※ウクライナの首都キーウの郊外に位置する都市)などでの虐殺の様子は、映像として脳裏に焼き付きます。

 このように、理不尽極まりない悲惨な状況に放り込まれ、戦争が2年近く続いているにもかかわらず、ウクライナでは多くの一般人が、現地にとどまり、懸命に働いています。電力やエネルギー、通信、金融などのサービスを届け、国民の命を支え、経済を回している。競合他社とも協力して技術者を融通し合い、破壊されたインフラを復旧する。そうした一般人の地道な活動があるからこそ、軍が戦い続けられています。

 特にサイバー空間は、地上や空、海、宇宙とは異なり、パソコンやサーバー、スマートフォンなど、「人工物」だけで構成されている、特殊な領域です。その人工物を支える技術は民間企業が作っています。つまり、サイバーセキュリティは、民間企業の支援なくしては成り立たない。目に見えないサイバー戦では、民間企業、一般人が最前線に立たされるのです。

 日本でも、最近、ウクライナへの軍事侵攻や台湾有事について分析した本が多く出ていますが、基本的には軍の視点で描かれています。「人口の圧倒的多数である一般人、会社員たちが、戦争や紛争の当事者としてどうなるのか? どうすればよいか?」という視点は、これまでほとんど注目されてきませんでした。

 防衛省出身で、現在、一般企業に勤めている自分だからこそ描ける人間ドラマを、サイバーの視点で本にすることで、読者に、他人事ではなく、自分事として受け止めていただけるのではと思った次第です。

田中 なるほど。本の中には、スイスの10代の少年や、オランダのシングルファーザー、デンマークのITエンジニアなど、外国人もウクライナのIT軍やハッカーとしてウクライナを支援するくだりもありましたが、私たちからすると、本当に見えないところで戦いが繰り広げられている。そのような、国際的なサイバーセキュリティの専門家である松原さんにしか書けないことが、たくさん詰め込まれていました。

松原 特に、執筆の意欲をかき立てた出来事は、2022年10月に行われた国際会議「シンガポール国際サイバー週間(※)」での、ウクライナ政府高官によるスピーチです。
※各国のサイバー担当相や企業の経営層などが参加する、インド太平洋地域最大の国際サイバーセキュリティ会議。

 私は、仕事柄、サイバーセキュリティ関連の国際会議に出席する機会が多くあります。このシンガポールの会議では、電力や通信、金融や水道などの重要インフラをいかに守るかについて議論するパネルディスカッションで司会を担当していました。

 パネリストの一人が、ウクライナ政府のサイバーセキュリティ庁に該当する、国家特殊通信・情報保護局の副局長、ビクトル・ゾラ氏でした。2022年の2月にロシアによるウクライナ侵攻が始まり、この時もまさにウクライナの首都キーウがミサイル攻撃を受けており、多くの国民に犠牲が出ただけでなく、ゾラさんの同僚も少なくとも4人が殺されていたので、ご本人の登壇はさすがに無理ではないだろうかと内心、思っていました。