当然ながら、鬱状態――それは言葉の流れによってさらに悪化する――にある人は、ソーシャルメディアでよりネガティブな個人的情報を発信するものだが、それにもかかわらず、鬱状態にない人と比べ、自分のネットワークは役に立たないと思っている。

ソーシャルメディアにおける自己演出と妬みの感情

 だがソーシャルメディアは、頭の中を流れていく思考や感情を(過剰に)表明するためのプラットフォームを提供するだけではないし、ソーシャルメディアが内なる対話を脱線させる方法は、もっぱら共感と時間に関わっているわけでもない。ソーシャルメディアを通じて、私たちはまた、自分の生活の中で本当に起こっていると他人に信じてほしいことを形にできるし、投稿する話題の選択次第では他人のチャッターを煽る場合もある。

 人間の持つ自己顕示の欲求は強力なものだ。私たちは、自分が他人の目にどう映っているかに影響を及ぼそうとして、四六時中見た目をつくろう。昔からずっとそうだったが、ソーシャルメディアの登場によって、同じことをするにしても私たちが手にする支配力は格段に大きくなっている。

 ソーシャルメディアのおかげで、生活の見せ方を巧みに演出できる。つまり、これはいわゆるフォトショップ版の人生であり、最悪の経験や見てくれが悪い瞬間は消し去られる。

 こうした自己顕示活動に取り組むことで、私たちは気分がよくなる。他人の目に魅力的な姿で映りたいという欲求が満たされ、内なる声も鼓舞されるのだ。

 だが、そこには落とし穴がある。生活の華やかな場面を投稿すれば気分はいいかもしれないが、その同じ行為によって、投稿を見た利用者が感情を害する恐れがある。というのも、人間は自分をよく見せたいという気持ちを持つと同時に、自分と他人を比較せずにはいられないからだ。

 ソーシャルメディアは、私たちの脳に備わる社会的比較のためのハードウェアを過熱状態に切り替える。たとえば、2015年に私が同僚とともに発表した研究で次のことが明らかになっている。フェイスブックの画面を受動的にスクロールし、他人の生活を覗いている時間が長いほど、人は妬みの感情が大きくなって気分が落ち込むのだ。