1976年に大学に入った。迷うことなく哲学を学ぼうと思っていた。田舎の哲学青年だったので、哲学と神保町の古本屋を目指して東京に出てきた。将来のことなど何も考えないで、哲学の道を心に決めていた。西洋哲学史(城塚登編『西洋哲学史』有斐閣、1973年)を一冊読んで何とかなると思ってしまったのである。

 当時の哲学科の主流は、カント、ヘーゲル、フッサール、ハイデガーとイギリス経験論(分析哲学)が二大潮流で、それ以外となると古代ギリシア、デカルトやライプニッツといった近世哲学、フランス思想は息をひそめて存在していた。そこには、中世哲学のかけらもなかった。

 1985年の夏、東大哲学科の助手、大学院生、学部生が五人ほど集まってドゥンス・スコトゥスの読書会を密かに始めたのである。私もそこに加わり始めてスコトゥスに出会った。

 哲学科では中世哲学は縁遠いものだった。東大で中世哲学の講義が開かれることは年に一コマ程度、非常勤講師によって散発的に開かれるだけだった。トマス・アクィナスの思想も知らぬまま、ドゥンス・スコトゥスという哲学者の存在の一義性という理論が注目されているらしいと、わかりもしない若者達が集まって読書会が始まった。隠れキリシタンのように、禁じられたもののごとく中世哲学は学び始められた。

異色の編集者・中野幹隆と出会い
中世哲学の海に投げ出された

 1986年の春、四月頃だったと思う。中野幹隆(1943~2007)さんから呼び出された。微かな面識はあったとしてもほとんど初対面の状態で、西神田の朝日出版社の社屋に赴いた。

 その前に、雑誌の『エピステーメーII』(編集部注/朝日出版社刊、中野は立ち上げ編集長)に、ロバート・L・マーティンの「嘘つきパラドックスの解法」というかなり長めの英語論文を私の翻訳で載せていた。1985年の夏頃に土屋俊さんの紹介で、その翻訳の仕事が私に回ってきたのだった。

 出版社に翻訳の原稿を渡すときに、中世哲学に関心があって、ドゥンス・スコトゥスを読んでいるということを話した。そのことに中野さんが興味を持って呼び出されたということだ。スコトゥスに出会った頃と中野幹隆さんに出会ったのが同じ頃だったのだ。偶然が人生を決めてしまったのである。

 中野さんは気の早い、気の短い人である。中野さんから、ドゥンス・スコトゥスの『存在の一義性』の翻訳を頼まれる事態になって、参考文献もない環境で、よい文献はないかと探していたら、なんと新刊案内に『存在の一義性』のタイトルを見つけ、これは助かると小躍りしたら、自分が訳すことになっている本だった。