「ハマスは大方の人が考えているのとはちがって、序列と規則のある組織ではない」
オスロ合意のあと、イスラエルとパレスチナでは喧喧囂囂の論争が起きた。その間、いくつもの暴力事件が発生したが、状況を大きく変えたのは1995年2月25日の「ヘブロン虐殺」だった。アメリカ生まれのユダヤ人医師バルーフ・ゴールドステインがヨルダン川西岸にあるヘブロンのモスクで銃を乱射し、礼拝に来ていた29人のパレスチナ人を殺害し、100人以上を負傷させたのだ。
4月13日、その報復として、21歳のアマル・サラ・ディアブ・アマルナがテルアビブ行きのバスで約2キログラムの爆薬を詰めたカバンを爆発させた。これがはじめての自爆攻撃で、その後、子どもたちを犠牲にするテロが相次いだことで、イスラエル社会はパニックに陥った。
ここでもイスラエルが間違えたのは、モサブの父をはじめとするハマスの幹部を投獄すればテロを止められると考えたことだ。イスラエルの治安当局は、「ハマスが本当は誰なのか、どういうものなのかを見抜く力を怠った」し、「ハマスが大方の人が考えているのとはちがって、序列と規則のある組織ではないことを理解し始めるまでに、多くの苦難の年月を要(した)」として、モサブはこう書いている。
ハマスは影法師なのだ。まぼろしの観念なのだ。観念を破壊することはできない。できるのは刺激することだけだ。
その一方で、ハマスも大きな間違いをしていた。「イスラエルを海に追い落とす(イスラエル国家を消滅させて、すべての土地をパレスチナ人の手に取り戻す)」というハマスの目標は、とうに実現不可能になっていた。だが頭ではこのことを理解しているひとたちですら、「アラーがある日イスラエルを倒してくれるという信念」にしがみついていた。
イスラエルにとってPLOの民族主義者たちは、単に政治的な解決を必要とする政治問題だった。ハマスはパレスチナ問題をイスラム化し、宗教問題にしてしまった。そして、この問題は宗教的解決によってしか解決されないのだ。つまりそれは、私たちがその土地はアラーのものであると信じているがゆえに絶対に解決されない問題だということである。以上で議論終了だ。したがって、ハマスにとって究極の問題はイスラエルの政策ではない。民族国家イスラエルの存在そのものなのだ。
政治的な対立が宗教的な対立になったことで、イスラエルとパレスチナの関係は泥沼にはまり込んでいく。そんななか、17歳のモサブにとって、「人生はもはや何の意味もなくなっていた」。
高校生のモサブは、ハマスの軍事部門に加わり、イスラエルと(腐敗した)パレスチナ暫定政府に復讐することしか考えられなかった。そして、「私のすべての苦闘と犠牲は、こんな形で、イスラエルとの安っぽい和平で終わるのか? もし私が戦って死んだなら、少なくとも私は殉教者として死に、天国に行けるだろう」と思っていた。これはテロリストになる若者の典型的な心理だろう。
こうしてモサブは、友人たちと銃を手に入れようと画策する。だがこの取引にだまされたことでIDF(イスラエル国防軍)の諜報網に引っかかり、指名手配となって逮捕されてしまう。高校卒業まであとすこしの、18歳のときのことだった。
モサブが刑務所のなかでイスラエルのスパイの申し出を受け入れた理由
イスラエルがテロ容疑で逮捕したパレスチナ人を拷問していることはイスラエル国内でも問題になり、1987年には「肉体への暴力によって自白を引き出してはならない」とされた。だがこれには例外があり、「非暴力的な」心理的圧力と、「尋問でのおだやかな」肉体への圧力は許容されるとされた。
その結果シン・ベットは、容疑者に嘔吐物でなかば腐った頭巾をかぶせ、後ろ手に手錠をかけて1日じゅう座らせたり、糞尿で汚れた床で食事させたり、クローゼットのような狭い部屋で何晩も立たせたりした。その間ずっと、レナード・コーエン(カナダ生まれのユダヤ系シンガーソングライターで、詩人としても知られる)の“First We Take Manhattan”が流れていたという。
18歳のモサブもこうした拷問で責められたが、ある日、「ロアイ」という20代半ばのシン・ベットの隊長が現われ、取引をもちかけた。ロアイはモサブがハマス創設者の息子だということを知っていて、スパイにしようとしたのだ。モサブがこの申し出を受けたのは、刑務所を出たら武器を手に入れ、イスラエルに復讐できると思ったからだ。
モサブは偽装のために刑務所に入れられたが、そこはハマスのメンバーが仕切っていて、イスラエルに協力した「スパイ」をあぶりだして拷問を加えていた。囚人たちはみな、ハマスの治安部門の監視に脅えていた。それを間近に見て、イスラエルはもちろん、ハマスにも「正義」がないことをモサブは知った。
釈放後2カ月たつとロアイが電話をかけてきた。スパイの仕事を言い渡されると思ったら、ロアイはモサブに大金の入った封筒を渡し、「君の任務は、大学に行って学士号を得ることだ」といった。
ロアイはつねに、モサブに礼儀正しく接した。モサブはこれまで、パレスチナ人を含め、大人からこのように扱われたことがなかった。ロアイはモサブより7、8歳年上だが、「私が今まで出会ったどのパレスチナ人よりも、父に似ていた」という。「アラーを信じてはいなかったが、とにかく私を大事にしてくれた」からだ。
モサブの次の大きな転機は、エルサレムでイギリスから来た旅行者に声をかけられ、キリスト教の研究会に誘われたことだった。そこでは民族も宗教もばらばらだが、同世代の学生たちが50人ほど集まって、聖書について語り合っていた。
その研究会でアラビア語と英語で書かれた新約聖書をもらい、モサブは読みはじめた。そして、「敵を愛し、迫害する者のために祈れ」というイエスの言葉に、雷に打たれたようになった。「こんなことはかつて一度も耳にしたことがない。でも、これこそが今までの人生でずっと私が求め続けていた言葉だった」。
2005年、モサブはたまたま出会ったキリスト教徒のアメリカ人女性にテルアビブの海で洗礼をほどこしてもらい、キリスト教に改宗した。これをどのように解釈するかには立ち入らないが、スパイとしてユダヤ教とイスラームの対立にはまり込んだモサブには、両者から距離を置ける宗教が必要だったのかもしれない。
「実際にハマスを動かしているのは誰なのか?」
2000年、のちにイスラエル首相となる右派リクード党の党首アリエル・シャロンが、イスラームの聖地でもあるエルサレムの神殿の丘を訪れたことをきっかけに、大規模なパレスチナ人の抗議行動、第二次インティファーダが勃発した。ふたたび自爆テロによって多くのイスラエル市民が死傷し、その報復によってさらに多くのパレスチナ人が殺された。
「グリーン・プリンス」というコードネームを与えられたモサブは、ハマスの軍事部門や政治部門だけでなく、他のパレスチナ組織にも潜入できる、シン・ベットでもっとも重要なスパイとなり、ロアイとともにこの暴力の連鎖を止めようとする。
その後の手に汗握るスパイ映画のような展開が本書の山場だが、それは本を読んでいただくとして、パレスチナ問題を理解するのに重要なことを2つ挙げておこう。
ひとつは、インティファーダがパレスチナの組織にとって「ビジネス」になっていったこと。「世界中のアラブ人がアメリカとイスラエルの国旗を燃やし、デモを行い、占領を粉砕するために、パレスチナ人地域に数十億ドルを注ぎ込んだ」として、モサブはこう書いている。
第二次インティファーダが始まってから最初の2年半の間に、サダム・フセインはパレスチナ人殉教者の家族に、総額3500万ドルを支給した。イスラエルとの戦闘で殺された者の遺族に、それぞれ1万ドル、自爆攻撃の実行者家族すべてに、それぞれ2万5000ドル。土地をめぐる愚かな戦いについて言えることはたくさんある。しかし、人の命は安いものだとは、決して誰も言えない。
この一連の騒動の最中、とくにイラクの独裁者サダム・フセインから大金が流れ込んできたことで、ハマスは自爆攻撃の独占権を失ってしまう。今ではイスラム聖戦機構やアル・アクサ殉教者旅団ばかりか、世俗主義者、共産主義者、無神論者までもが自爆攻撃の実行者となった。そして、誰がイスラエルの民間人をいちばん多く殺せるか競い合っていた。
2001年6月、テルアビブのディスコで自爆テロが起き、10代の若者たちを中心に死者21人、負傷者132人の大惨事となった。その実行犯の父親はインタビューに答えて、「私の残りの3人の息子にも、同じことをしてもらいたい。私の家族全員、親戚全員に、わが民族とわれわれの土地のために死んでほしい」と語り、それを隣人たちが祝福した(このエピソードは父親の狂信ではなく、パレスチナ社会の同調圧力の強さを示しているのかもしれない)。
もうひとつは、ハマスの実態について。2004年11月にアラファトが病死すると、イスラエルはモサブの父を釈放した。アラファトの死後、パレスチナ人のあいだで内戦が起きないようにするため、ハマスのリーダーが必要だと考えたのだ。
それに加えて、治安当局にはどうしても知りたいことがあった。「実際にハマスを動かしているのは誰なのか?」だ。モサブの父は選挙によって、ハマスのリーダーに選ばれていた。以下の部分は重要なので、少し長くなるが全文引用しよう。
(ハマスを動かしていたのが)私の父ではなかったという事実に、誰もが驚いた。私でさえ驚いた。私たちは父のオフィスや車に盗聴器を仕掛け、父の一挙手一投足を監視した。そして、ハマスを操っているのは父ではないことにまったく疑いの余地はなかった。
ハマスは以前からずっと、何か得体の知れない幽霊のような存在だった。本部や支部があるわけでもなく、活動の代表者と話すために人々が立ち寄る場所もなかった。多くのパレスチナ人、特にインティファーダの間に夫や父親を失った囚人や殉教者の家族が父のオフィスに来て、彼らの問題を話し、助けを求めた。しかし、シェイク・ハッサン・ユーセフでさえ何も知らなかったのだ。誰もが、父なら何にでも答えを出せると思っていたが、父も私たちとまったく変わらなかった。父にしても疑問だらけだったのである。
ある日、父が私にオフィスの閉鎖を考えていると言った。
「どうして? 今後どこでマスコミと会うんですか?」私は尋ねた。
「そんなことはどうでもいい。みんな、私なら助けられると思ってどこからでもやって来る。しかし、助けを必要とする人すべてに必要なものを提供することなどできないのだ。とにかく人数が多すぎるんだ」
「なぜハマスは彼らを助けないんです? 彼らは運動に参加した人たちの家族です。ハマスには豊富な資金があるでしょう」
「そうだ。しかしハマスはその金を私にはくれないのだ」
「だったら要求したらどうですか。必要としている人全員のことを彼らに話すんです」
「私はその“彼ら”が誰なのかも、どうすれば“彼ら”と連絡がとれるのかも知らないのだ」
「しかし、あなたは指導者じゃないですか」私はなおも言い張った。
「私は指導者ではない」
「ハマスを設立したじゃないですか、父さん。その父さんが指導者でないなら、いったい誰がそうだというのですか?」
「誰も指導者ではないのだ!」
私はショックを受けた。ひとことも漏らさず盗聴していたいシン・ベットもショックを受けていた。
モサブは、シリアがハマスに拠点を提供しており、「高学歴で、一時期ハマスで盛んに活動していたが、その後は政治からいっさい身を引いて、ごくふつうの生活を送っている者」がイスラエル国内やヨルダン川西岸、ガザで、エージェントとして海外からの指示を伝えているのではないかと推理しているが、組織の全容を解明することはできなかった。