誰かが鼻歌を歌う前に、その曲名がわかる。そんな経験がありませんか。その場で、その歌の名前を相手に告げる時間的余裕はありませんが、歌を聞いて、「やっぱり!」と思うことがありますよね。ほかにも、電車の中でも街を歩いていても、誰かの視線を感じて、ぱっと見たらその人と目が合った経験がありませんか。

 この「《感じる》という感度」みたいなものは誰もが持っています。

 人は周りから評価されたい、よく見られたいと思いがちです。そうすると緊張します。緊張してしまうと、自分の目の前の相手にだけ意識が集中しますから、《感じる》感度が落ちます。自分自身が自然体でいれば、相手の感覚や感情に気づくことができます。

 自然体でいると自分自身が開きます。

他者への気くばりは自分に返ってくる

 周囲の人を大事にする人は自分も大事にされます。ただし、自分に対する見返りを要求するための他者への気くばりは、相手にとってみると「気くばり」ではありません。「下心」です。「下心」は容易に相手に伝わります。気くばりというのはそういうものではありません。

『リーダーの気くばり』書影柴田励司『リーダーの気くばり』(クロスメディア・パブリッシング)

 小売り事業に関わっていたときの話です。全国に営業店舗がある会社でこんな経験をしました。そこではお互いを名前ではなく肩書で呼び合っていました。「店長」とか「主任」と。いまだにそういう会社は多いし、それでいいじゃないかという人もおられるかもしれませんが、私には違和感がありました。

 そもそも名前は、その人の固有名詞ですし、その人を表すものです。名前を呼ばないということはその人に対する気くばりがゼロだと思ったのです。そこで店舗に初めて行くときには、名札を用意してもらったり、いろんな場面で名前を意識的に呼ぶようにしました。

 そうこうするうちにある店舗に初めて行ったときに「歓迎! 柴田励司さん」というウェルカムボードを発見しました。それを見て「これをいつもやっているの?」と聞いたら、 「柴田さんからいつも名前で呼んでいただいているので、私たちも役職じゃなくて柴田励司さんようこそ、と書いたのです」と。これは「私の意図することが伝わった」と感じて、とてもうれしかったです(柴田が紫田と書かれていたのはご愛嬌です)。

 私がみんなを名前で呼んでいることをわかってくれて、こういうかたちで返してくれた。とても印象に残っているエピソードです。