「自社で保険の見直しを実施し、こうした点が問題と思われ、それを解決する保険商品がA、B、Cと思われたので、これこれの理由でBを選択しました。これにて最適化が実現できたと弊社は考えます」という説明は、前世紀ではさておき、現在では必要十分ではなかろう。

客観性を担保するために
不可欠な第三者の存在

 むしろ、「第三者専門家による見直しを実施し、保険契約の最適化を行いました」と簡潔明瞭に報告する方が、ステークホルダーや社会は好意的に受け入れるかもしれない。第三者の専門家による介入が客観性を担保し、企業の説明責任を果たす。

 たとえばNTT東日本は、自社のサステナビリティ情報の客観性を「独立第三者の保証報告書」をウェブサイトに掲載することで担保している。独立の第三者の視点から企業内を監視し、不正や不祥事による信頼失墜の予防を目的の一つとして利害関係のない外部人材を取締役に加える社外取締役制度も、その存在自体に企業運営の質の担保を期待してのものと言える。

 存在が客観性を担保してくれるなら、いかに客観性を担保しているかを長々と説明するよりよほど簡潔に済む。説明の準備時間を、社外取締役に適切な知見を持つ外部人材探しにあてれば良い。

外部の人間にはわかるまい
という歪みは「時限爆弾」

 筆者はかつて米国で弁護士業に従事していたが、米国の裁判では独立した専門家(独立専門家)による客観性の担保が常識だ。企業と企業との間で行われる民事裁判において、損害賠償額が当事者企業の算定に依存することはまずない。

 原告・被告それぞれが経済学者や公認会計士などの独立専門家を手配する。専門家は企業から提供された財務データを精査し、あるべき損害賠償額を客観的に証言する。独立専門家を携えずに裁判に臨めば負け戦だ。陪審員は当事者自前の数値ではなく「独立専門家の意見」という点のみでそちらを優先する。

 一般化し過ぎるとのご批判を承知で申し上げると、日本企業は独立専門家の戦略的活用が不得手かもしれない。多くが「外部の人間にはわかるまい」と考えがちだ。また、外部の専門家が見てわからない状態に問題がある、という点に不思議と頓着しない。さらに外部の参加を忌避する傾向が強い。歴史・文化的背景の影響かもしれないが、外部に晒されずに長年続く関係が歪みを生じさせる可能性は否めない。