震災当時、4000人ほどが在宅していたといわれる宮城県名取市閖上地区で、800人近くもの犠牲者が出たのはなぜなのか。

 その要因として挙げられているのは、大津波警報の発表や避難を知らせる「デジタル防災行政無線」が鳴らなかったこと(前回参照)、さらに市の指定避難場所の「閖上公民館」に避難した人たちが外に出され、「閖上中学校」に誘導される途中、津波に飲み込まれたことだ。

「公民館の2階に残っていれば…」
中学校への避難誘導で多くが犠牲に

黒板の日付は「あの日」のまま。Aさんは震災後、卒業メッセージのすき間に息子の同級生たちへのメッセージを書き込んだ
Photo by Yoriko Kato

 当時、閖上公民館にはグラウンドの車も含めると、200人以上が避難していたといわれている。公民館の前を通って中学校のほうへ向かう道路は、すでに車で大渋滞していた。

 津波が来たとき、公民館の2階に残って助かったのは、わずか三十数人だった。

「公民館にいたとき、薄緑色の上下の作業着を着た男の人が来て、館長と話した後、“ここでは助からないから、みんなを中学校へ誘導して!”と言ってたような気がします。ほとんどの人が外に出たと思いますね」

 当時、中学1年生の長男を亡くした母親のAさんは、そう振り返る。

 近隣に住んでいたAさんは、公民館の中で中学校卒業生の謝恩会をしている最中、地震に遭った。揺れが収まった後、一旦自宅に帰宅。自転車で近くの実家の両親の安否を確認しに行くと、隣の家の庭で集まった近所の人たちと一緒にラジオを聞いていた。両親の姿を見たのは、それが最後となった。

 Aさんは、実家に預けていた小型犬だけを連れて再び公民館に避難し、グランドに車を停めて、建物の目の前にいた。中学校へ移動するよう誘導があったときも、一緒に犬がいたことや、車が渋滞していたことなどから、そのまま公民館に残ることにしたのだ。

「貞山堀から海側に住む、仲のいいおばあちゃんがスクーターで来ていて、“向こうは、避難しろ!と大騒ぎになっているよ。公民館が避難所になってるから来たんだ”って。道路がえぐられて液状化し、マンホールも突き出たそうです。でも、こっちの公民館周辺は静かで、避難の指示もない。そこまで被害がすごいという感覚がなかったんですね」

 1年前のチリ津波のときも、公民館の1階が避難所だった。

 長男は、友人と一緒に公民館前のグランドにいた。

 津波は、音もにおいもなく、突然やってくる。気づくと、道路をはさんで隣接する観音寺の本堂の屋根に土煙が見えた。

「大変だ!あれは津波だぞ!」

 誰かが叫んだ。