天才数学者たちの知性の煌めき、絵画や音楽などの背景にある芸術性、AIやビッグデータを支える有用性…。とても美しくて、あまりにも深遠で、ものすごく役に立つ学問である数学の魅力を、身近な話題を導入に、語りかけるような文章、丁寧な説明で解き明かすロングセラーの数学読み物『とてつもない数学』。鎌田浩毅氏(京都大学教授)「数学“零点”を取った私のトラウマを払拭してくれた」(「プレジデント2020/9/4号」)、「人気の数学塾塾長が数学の奥深さと美しさ、社会への影響力などを数学愛たっぷりにつづる。読みやすく編集され、数学の扉が開くきっかけになるかもしれない」(朝日新聞2020/7/25掲載)、佐藤優氏「永野裕之著『とてつもない数学』は、粉飾決算を見抜く力を付ける上でも有効だ」(「週刊ダイヤモンド2020/7/18号」)、教育系YouTuberヨビノリたくみ氏「色々な角度から『数学の美しさ』を実感できる一冊!!」と絶賛されている。今回は、著者の書き下ろし原稿を特別に掲載する。
消えた1000円
「消えた1000円問題」と呼ばれる有名なパラドックス(事実に反する結論なのに反論しづらい言説)をご存じだろうか? つい先日も、X(旧Twitter)で話題になっていた。
問題の概要はこうである。
【消えた1000円問題】
ある3人組がホテルに宿泊し、3万円を支払った。しかし、実際の宿泊費は2万5000円だったので、ホテル側はボーイに5000円を渡し、3人に返金するよう指示した。ボーイはその中から2000円をネコババし、3人には1000円ずつしか返金しなかった。結果として、3人は合計で2万7000円を支払ったことになるが、これにボーイが盗んだ2000円を加えても2万9000円にしかならず、元の3万円には足りない。残りの1000円はどこに消えたのだろう?
いかがだろう。「たしかに、1000円が消えてしまった」と感じた人も多いのではないだろうか?
【解説】
まずはお金の流れを整理してみよう。
宿泊客から3万円がホテルに移動
→ホテルから5000円がボーイに移動
→ボーイから宿泊客に3000円が移動
結果、
ホテル 2万5000円
ボーイ 2000円
宿泊客 3000円
合計 3万円
こう考えると、どこにもおかしな所はない。
不思議に感じてしまう理由
ではどうして多くの人はこの問題を「1000円足りない」と思ってしまうのだろうか? 筆者は、3つの理由があると思う。
【理由1】不適切な二重計算
ボーイがネコババした2000円は宿泊客が支払った2万7000円の一部であるから、2万7000円に2000円を足すのは二重計算になる。宿泊客が最初に支払った金額を確認するなら、(当たり前だが)ホテルが所持する2万5000円とボーイが所持する2000円と宿泊客の手元に戻ってきた3000円を合計すべきである。
【理由2】収支の主体が複数登場する
3人の宿泊客、ホテル、ボーイと収支の主体が複数登場するところがややこしい。一旦ホテルを経由していることもあり、ボーイにネコババされた2000円が元々は宿泊客のお金であったことがわかりづらくなっている。しかし問題の本質は、宿泊客の支出が、ホテルの収入(2万5000円)とボーイの収入(2000円)の合計に等しい点にある。
【理由3】誤解を生む文章
読者の誤解を誘うように文章が仕組まれている。「最終的な支払いの2万7000円」と「ボーイが盗んだ2000円」が強調されているため、本来注目すべき「宿泊客の手元にある3000円」を見失ってしまう。
似た問題で考えてみよう
「消えた1000円問題」の構造が分かれば、似たようなパラドックスが作れる。
【類題】
ある家から10人が買い出しに出かけたが、そのうち3人は体調不良で帰ってきた。帰り道の途中、1人が病院に行ったので、家に帰ってきたのは2人。今、家の外にいるのは8人だ。病院にいる1人を足しても9人。残りの1人はどこに行った?
【解説】
病院にいる1人は家の外にいる8人の中に含まれる。それなのに、家の外にいる8人に病院にいる1人を改めて加えるのはおかしい。言うまでもないことだが、家にいる2人と家の外にいる8人を足せば、元の人数(10人)になる。
ただし、この「類題」の理不尽さに気づく人は多いと思う。なぜなら、家の「中」と「外」がイメージしやすいため、上記の「理由2」に相当する誤解が生まれづらいからだ。
数式にすれば誤解は生まれない
この「消えた1000円問題」と同じ構造を持つ文章題を作ってみた。
【文章題】
あなたはある店で食事をして会計時にx円を渡した。5000円のおつりがあったが、そのうち2000円をチップとしてあげたので、結局あなたは27000円を支払った。xを求めなさい。
【解答】
おつりからチップの分を差し引いた実質のおつり(手元に戻ってきた金額)は5000円-2000円(=3000円)。最初に渡した金額から「実質のおつり」を引くと、支払った金額になるから、xの方程式は次の通り。
x-(5000-2000)= 27000
xを求めるには左辺の( )を移項して
x= 27000+(5000-2000)= 30000
とすればよい。これを「消えた1000円問題」のパラドックスは
x= 27000+2000
と考えてしまっていることになる。当然、チップ分を含む支払い金額に、さらにチップの分を加える根拠はない。
このように、数式を用いれば、疑問を挟む余地がない明確な推論が可能となる。
一方、日常語での表現はしばしば誤解を招く。この点について、かつてガリレオは「宇宙は数学という言語で書かれている」と言った。
実際、多くの科学者が自然現象の記述に数式を採用している。数式は、あらゆる言語の中で誤解を生むリスクが最も低いからだ。
数学は真実を語る。たった一行の数式が、万の言葉より雄弁なことがある。
だからこそ、古今東西、数学に魅了される者は跡を絶たない。
(本原稿は『とてつもない数学』の内容と関連した書き下ろしです。)
永野裕之(ながの・ひろゆき)
永野数学塾塾長
1974年東京生まれ。父は元東京大学教養学部教授の永野三郎(知能情報学)。東京大学理学部地球惑星物理学科卒。同大学院宇宙科学研究所(現JAXA)中退後、ウィーン国立音大へ留学。副指揮を務めた二期会公演モーツァルト「コジ・ファン・トゥッテ」(演出:宮本亞門、指揮:パスカル・ヴェロ)が文化庁芸術祭大賞を受賞。主な著書に『大人のための数学勉強法』(ダイヤモンド社)、『東大→JAXA→人気数学塾塾長が書いた数に強くなる本』(PHP研究所)など。これまでに1000人以上の生徒を数学指導してきた実績を持ち、永野数学塾は、常に予約キャンセル待ちの人気となっている。NHK(Eテレ)「テストの花道」出演。朝日中高生新聞で『マスマスわかる数楽塾』連載(2016ー2018年)。朝日小学生新聞で『マスマス好きになる算数』連載(2019ー2020年)。『
とてつもない数学』(ダイヤモンド社)がロングセラーとなっている。
数学は、美しくて、深遠で、役に立つ――著者より
1から1000に増えるまでには約2ヵ月かかった。その後、11日で2000にまで増えた。さらに、3日後には、3000を超えてしまった。
これが何の数字かおわかりだろうか? 新型コロナウイルスの日本国内における感染者数の推移である。WHOによると、新型コロナウイルスは1人の感染者からおよそ2人(正確には1・4~2・5人)に感染するそうである。これは、感染者の数が1人→2人→4人→8人→16人……と「倍々ゲーム」で増えていくことを意味する。
「倍々ゲーム」を1から始めた場合、「→」を4回重ねても16にまでしか増えないが、10回重ねると1024まで増える。「→」を20回重ねれば、なんと100万を超えてしまう。このように同じ数を繰り返し掛けることによる変化を「指数関数的変化」と呼ぶ。最初はゆるやかにしか増えないのに、途中から爆発的に増えるというのは、指数関数的増加の最大の特徴だ。冒頭に紹介した感染者数の推移はまさにこの特徴にあてはまる。
もし数学がなかったら、私たちはかつて経験したことのない事態に見舞われたとき、ただ呆然と立ち尽くすか、「予言者」を名乗る人物の言葉を信じるしかないだろう。しかし、数学があれば、たとえ未曾有の感染病であっても、モデルを作り、論理的考察を重ねることで、確度の高い予想を立てることができる。それは未知の問題を解決する緒になる。
現代は、第四次産業革命の真っ只中にある。コンピューターとインターネットの普及によって、AI(人工知能)、IOT(モノのインターネット)、ビッグデータなどが産業に大きな変化をもたらしているのだ。そうした中で、数学の存在感は益々大きくなっている。国家や企業の命運を左右する戦略の決定から、ごくごくプライベートな問題に至るまで、数学の守備範囲は極めて広い。
たとえばイギリスの数学者ピーター・バックスは、2009年に「なぜ僕には恋人ができないのか?」という論文を書いた。その中で彼は、いわゆる「フェルミ推定」を使い、自分が理想とする女性がロンドンには26人いるはずだと算出している(ロンドンの人口を考えると、そのうちの誰かと出会える確率は極めて低いと結論した)。
「フェルミ推定」というのは、既知のデータといくつかの推定量を掛け合わせてだいたいの値をはじき出す手法のことを言う。GoogleやMicrosoftなどが入社試験に「東京にはマンホールがいくつあるか?」のような問題を頻繁に出したことから「フェルミ推定」は注目を集めるようになった。
また、つい最近、こんなニュースもあった。京都大学数理解析研究所の望月新一教授が8年前に書いた「ABC予想」についての論文の査読(内容チェック)が終わり、その正しさが確認されたという。誠に素晴らしいことであるが、このニュースを聞いて「正しいかどうかを判定するのに8年も?」と驚かれた方は多いのではないか。この論文は、発表された当時「理解できる数学者は10人もいないだろう」と言われた。数学はときに、世界最高ランクの頭脳が束になっても叶わないような高い知性を必要とする。
この度上梓させていただく『とてつもない数学』には、数学の、こうしたとてつもない懐の広さと魅力について書いた。数学の学問としての奥深さ、美しさを体現する芸術性、実学としての社会への影響力などを、文系の読者にも読みやすいように、できるだけ噛み砕いて書いたつもりである。また、ことり野デス子さんの可愛く、それでいて数学的に的を射たイラストもふんだんに盛り込まれているので是非お楽しみいただきたい。
歴史に名を残す数学者の姿も書いた。彼らについて知れば、数学は人類が脈々と受け継いできた「叡智の結晶」であることがわかるだけでなく、クールな数式の裏に隠された熱いドラマにも胸を打たれることだろう。
私自身は、高校時代に物理を通して数学の「とてつもなさ」を知った。公式として覚えさせられた数式の数々が、微分・積分によってすべて繋がることを知ったときの興奮と感動は今でもはっきりと覚えている。それは私にとって、数学という世界の扉が開いたような心持ちになる出来事だった。
その後は、数学の持つ合理性と美しさをどこにでも発見することができたし、数学が教えてくれるものの考え方が人生を生きる上での指針になることも知った。
1つの「とてつもなさ」をきっかけにして、こうした経験を積んだことこそ、私が数学の意味と意義とお伝えすることをライフワークにしていこうと決心した最大の理由である。数学の「とてつもなさ」が私の人生を変えたと言っても過言ではない。
本書が、読者にとっての「数学の扉」が開くきっかけになることを願っている。
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数学の概念や理論・方法論は、主に16世紀以降、物理学、化学、生物学、天文学といった基礎科学はもちろん、工学、農学・医学、経済学といった実学にも応用され、さらには哲学や芸術までにも拡がった。そして、第四次産業革命(AI、IOT、インターネット、ナノテクノロジー、自動運転といった技術革新があらゆる場面の産業に引き起こしている技術変革)が進行中の現代では、数学の存在感は益々大きくなっている。
これからは、数学と無関係なものは何もない、と言えるところまで拡大していくのではないだろうか。そういう意味では数学の「とてつもなさ」は、今もなお発展中なのである。
本書では、ピタゴラス、デカルト、フェルマー、ニュートン、ライプニッツ、オイラー、ガウス、カントール……などの天才数学者たちの功績を紹介し、彼らがもたらした方程式、関数、微分積分、集合、確率、統計……といった数学上のブレイクスルーの意味をお伝えした。また、負の数、虚数、無限、N進法といった概念や、円周率やネイピア数という不思議な定数とその影響力の大きさ等についても書いた。
数学の大きな魅力の1つである「美しさ」にも1章を割いたし、魔方陣や万能天秤といったパズル的な話題を通して、数そのものの不思議さが感じられる「計算」も紹介した。我ながらヴァラエティに富んでいると思う。それだけ数学という学問は間口が広いのだ。
本書で紹介した数学の学問としての奥深さ、美しさを体現する芸術性、実学としての社会への影響力などを通して、数学の「とてつもなさ」が――どれかひとつでも――伝わっていますように。そして、あなたにとっての「数学の扉」が開くきっかけになりますように。(本書の「おわりに」より)