数年前に、世界の安楽死の動向について緩和ケア関係者に講演した際、ある麻酔科医が戸惑いとともに口にした言葉が忘れられない。「自分は安楽死で使うのと同じ薬を毎日使って仕事をしてきた。その間ずっと、いかに死なせないかということに神経を集中してきたから、その発想を転換すること自体が、自分には想像もできない」。こういう医師にとって、「殺す」行為を求められることは苦痛でしかないだろう。
安楽死が合法化された国や州でも、自分は手を染めたくないと考える医療職は少なくない。そこでベルギーをはじめ多くの法律で設けられているのが「良心条項」だ。良心条項とは、自らの思想信条によって安楽死に賛同しない医療職は手を下さなくてもよいとする法律上の規定を指す。
ただし、患者から要請されて安楽死の実施を拒否する場合は、たとえばベルギーでは患者またはその近縁者が指定する別の医師に医療ファイルを渡さなければならない。カナダや米国でも州により、自分の患者から安楽死を要請されて拒む場合は実行可能な他の医療職に紹介するか、それらの医療機関についての情報を提供する義務が課される。それは、間接的に「死なせる」行為に加担させられるに等しくはないだろうか。
このように、個々の医療職の宗教的信条や道徳観、専門職としての倫理観など「良心の自由」「良心の権利」は守られるべきだと求める声が各地の医療現場から起こり、論争が続いている。2021年4月に医師幇助自殺が合法化された米国のニューメキシコ州では、致死薬の処方までは義務付けられなくとも、処方する用意のある医療職への紹介を求められるのでは「良心の権利」の侵害だとキリスト教徒の医師らが訴訟を起こし、2023年4月に医師らが医師幇助自殺に関わらないことを認める法律が制定された。
しかし、この良心条項をめぐっても、患者が利用する「権利」を有する医療サービスと安楽死が見なされていくにつれて、医師には患者を死なせてやる義務を課すべきだとする議論も少しずつ出てきており、せめぎ合いが始まろうとしている。