「問われる」という言葉を乱発する報道の“逃げ”
「なにそれ?」ポカンとしている人のために説明しよう。普段あまり気にしないと思うが、ニュース記事のタイトルで、「問われる政治責任」とか「日本が問われる社会の多様性」みたいな文言を見たことがあるはずだ。これは社会全体に問題提起がなされている重要なテーマですよ、と読者や視聴者に伝える「ニュース話法」のひとつだ。
ただ、そういう本来の使い方がされない時もある。報道機関である自分たちが厳しく「問いただす」ことをしなくてはいけないが、オトナの事情でそれができない時に、「厳しく追及していますよ」という雰囲気を醸し出すために多用されるのだ。
ジャニーズ問題がわかりやすい。ご存じのように、ジャニー喜多川氏の性加害は週刊誌や月刊誌、ネットやSNSではかなり以前から「事実」として語られていた。しかし、ビジネスパートナーであるテレビと、警察発表に依存する大新聞は「黙殺」してきた。
そういう経緯もあるので、テレビも新聞も本音の部分では、自ら進んでこの問題は扱いたくなかったし、同業者の責任追及や批判などしたくなかった。つまり、「問いただす」ことをしたくないのだ。
しかし、世間はそれを許さない。「膿を出せ」「検証せよ」「手ぬるいのでは」という感じで厳しく追及せよプレッシャーがくる。そこで「本当はやりたくないけれど、やっているように世間に見せる」ために、「問われる」という便利なワードに依存してしまう。
《ジャニーズ報道、問われる「沈黙」 朝日新聞「メディアと倫理委員会」》(朝日新聞 23年12月25日)
《ジャニーズ、性加害で謝罪 問われる自浄能力》(日経新聞 23年9月8日)
《ジャニーズキャスター、問われる矜恃 故・ジャニー喜多川氏の性加害認定どう語る 週末に報道番組など所属タレント登場》(夕刊フジ23年9月1日)
「いやいや、報道機関なんだから自分たちで厳しく問えよ」とあきれるかもしれないが、これがマスコミにとっては精一杯のファイティングポーズだ。
もし朝日新聞社やNHKという巨大組織の中で、「メディアの姿勢を問う!」とか「ジャニーズ報道の沈黙を問う!」なんて言い出す人があらわれると、「お前正気か?」「先輩やOBの顔に泥を塗るのか、この裏切り者!」なんて感じでボロカスに叩かれて、更迭や左遷されるのがオチなのだ。