日本の保守とリベラルは便利なレッテル

 ところが厄介なことに、冷戦構造が崩壊し、「左」の存在感がなくなった1990年代以降、日本でも、皆がリベラリズムを支持しているという前提が曖昧なまま、その保守とリベラルの対立が新たな政治の軸として輸入されることになってしまった。

 結果として、宇野も指摘するように、アメリカ式に保守とリベラルを対立させてはいるものの、実態は「かつての看板だけを替えたものであり、今もなお本質的には『右(保守)』と『左(革新)』の対抗図式が持続していると捉えることも可能」な状況が生まれてしまった(※宇野重規『日本の保守とリベラル』、中公選書、2023年、17頁)。いま日本の若い世代がリベラルと左派をほぼ同義で用いるのはこのためだ。

 以上の経緯からわかるように、いまの日本における保守とリベラルの対立は、じつは保守主義やリベラリズムの実質とはあまり関係がない。かといって冷戦時代の左右対立がそのまま引き継がれているわけでもない。

 ではそれはなにを意味しているのかといえば、両者はじつは、いま人々が漠然と感覚している、政治や社会へのふたつの異なった態度への便利なレッテルでしかなくなっているのではないか。

 宇野は別の著作で次のように指摘している。

「あえていえば、仲間との関係を優先する立場が保守と、普遍的な連帯を主張する立場がリベラルと親和性をもつといえる。このことは、政治において、共同体の内部における『コモン・センス(共通感覚)』を重視するか、あるいは、自由で平等な個人の間の相互性を重視するかという違いとも連動し、今後の社会を論じていく上での有力な対立軸となるであろう」(※宇野重規『保守主義とは何か』、中公新書、2016年、204―205頁 一部省略)

 この規定は簡潔だが的を射ている。冷戦が終わってすでに30年以上が経っている。共産主義は実質的に終わっている。確かに書店の人文書の棚には、資本主義は終わる、共産主義には未来があるとうたった本がいまだに並んでいる。けれどもだれもそれが具体的な政策につながる言葉だとは信じていない。かつての左右対立は機能していない。そもそも保守と社会変革も対立していない。

 いまの日本では、むしろ保守勢力こそが社会制度の改革を進めている。逆にリベラルは、護憲に代表されるように、しばしば「保守的」な主張をしている。

 ではどこに保守とリベラルの対立の淵源を求めるべきかといえば、もはやそれは連帯の範囲の差異ぐらいにしか現れていないのではないか。ぼくの考えでは、それが宇野が指摘していることである。