今でこそ下北沢は音楽と芝居の街として知られ、サブカルチャー文化が根づいた若者に人気のエリアだが、当時の下北沢はまだマイナーのイメージが強かった。本多一夫さんが経営するザ・スズナリや本多劇場がまだオープンしていなかった時期、下北沢の街に突如としてロックが舞い降りてきたという感じだった。街の若者たちはロック音楽に飢えており、このロフトの進出は熱烈な歓迎を受けた。

 烏山にロフトの1号店を開店させてから4年、私は有頂天となり、「日本のロックはロフトが領導する!」と息巻いていた。下北沢ロフトでの圧倒的成功は念願の新宿進出という夢の実現に近づき、ロフトの勢いはさらに加速していく。

 1976年10月、西新宿の小滝橋通りに新宿ロフトがオープンする。当時最大のスピーカー、JBL4550を備えた本格的なロック系ライブハウスだ。広さ65坪、キャパシティ300人というスペースは当時としては画期的で、ニューミュージック系のミュージシャンを総動員したオープニング・セレモニーは大きな話題を呼んだ。

 当初はChar、大貫妙子、サザンオールスターズなどが出演していたが、東京ロッカーズのムーブメント以降はARB、アナーキー(亜無亜危異)、ルースターズ、BOØWYなど硬派なバンドが多数出演、80年代に空前のバンド・ブームの総本山となったのはご承知の通りだ。

 70年代中盤から後半にかけての日本のロックの勢いは凄まじいものがあった。新進気鋭のバンドが次々に全国から東京へ集結してきた。ロック文化が大きくなるにつれ、レコード会社や芸能事務所もそうした新興ジャンルに注目していった時代だ。

 私たちは新潮流の表現であるロックの未来を信じ、大都会の地下室にあるライブハウスから日夜新たな文化が生まれるのだという自負があった。「これからは俺たちロックの時代だ」、そう信じ込ませられるほどの力、私たちを突き動かす衝動のようなものがロックにはあり、これこそが私たちにとっての明確なカウンター・カルチャーであると確信していた。