「均等法の母」と呼ばれた赤松良子と
『何でも見てやろう』の小田実
「ゆうひがおか」高校という。大阪市天王寺区にある。旧制島之内高等女学校が前身で、大阪府立の女学校では4番目の設立だった。府立高校として唯一の音楽科がある。
男女雇用機会均等法の生みの親で、日本ユニセフ協会会長の赤松良子が、今年2月に死去した。労働官僚出身の元文部相で、日本の女性の地位向上に力を尽くした。94歳だった。
赤松は1929年生まれ。大阪府立夕陽丘高等女学校(現夕陽丘高校)―津田塾専門学校英語学科(現津田塾大・英語英文学科)―東京大法学部というコースを歩み、53年に労働省に入省した。
82年に労働省婦人少年局長(後に婦人局長)に就き、男女雇用機会均等法の立案に当たった。85年に同法は制定され、86年に施行された。「私自身、男女格差に泣かされたから、均等法の成立は悲願だった」(文藝春秋2015年3月号)という。
均等法制定以前、女性たちは採用で門前払いされ、結婚や出産で退職させられることが茶飯事だった。日本が国際連合の女子差別撤廃条約を批准するためには、雇用の平等を確保する法律が必要だった、という時代背景もあった。
労働省退職後の93年には、民間から文部相にも登用された。高校野球において部員に「丸刈リ」を強制する学校に疑問を呈し、話題になった。99年には政治への進出を目指す女性を資金面で応援するネットワーク「WIN WIN」を立ち上げた。
昭和の高度成長時代、『何でも見てやろう』(1961年刊)というベストセラーで一世を風靡(ふうび)し、反戦運動のリーダーになり進歩的文化人の象徴のような存在と見なされた人物がいる。
作家、政治運動家の小田実(まこと)だ。旧制大阪府立天王寺中学(現天王寺高校)に入学したものの、学制改革で夕陽丘高校に移り卒業、東大文学部言語学科に進んだ。卒業後は、代々木ゼミナールで英語科教師になった。
1958年に、1枚の帰国用航空券と持参金200ドルを持って世界一周旅行に出かけ、世界のあらゆる人たちと語り合った。現在のバックパッカーのはしりであり、その体験記『何でも見てやろう』により小田は若者の間で偶像視された。
60年安保闘争の時期から反戦平和運動を始め、65年には「ベトナムに平和を!市民連合」(べ平連)を結成した。小田はその代表に就き、活動にのめり込んでいった。昭和40年代から平成にかけ、多くの著作物を出し、川端康成文学賞なども受賞した。2007年7月に75歳で死去した。
移転後も残された
「夕陽丘」の名称
夕陽丘高校は、大阪市南区に1906年、大阪府立島之内高等女学校として創立されたのがルーツだ。数年後に天王寺区夕陽丘町に校舎を移転したのを機に、夕陽丘高等女学校と改称された。23年には、1年生から洋服の制服を着用した。古代紫のはかまに代わる紺のセーラー服だ。
校地は34年に現在の天王寺区北山町に移ったが、「夕陽丘」の名称は変えなかった。「夕陽丘」は大阪湾の夕陽が望める、として13世紀から伝わる由緒ある地名だった。それに、なにより優雅な響きもあった。