イアン・ハッキングという人が『記憶を書きかえる』という面白い本を書いていて、1980年代にアメリカで多重人格が流行したとき、人口の数%が多重人格で、みんな親から虐待を受けているという話になっていたらしいんです。でもそれはさすがにおかしくて、別のところに原因があるんじゃないかと。

 精神疾患に関しては、アメリカではDSM(精神疾患の診断・統計マニュアル)の臨床分類があります。それによって保険の適用が認められたりするので、精神疾患として分類されることがとても大事です。分類され、名付けられ、障害と認められて、はじめて医療の対象になる。そのことで巨額のお金も動く。ある診断が急速に増えるというのは、そういう現実と切り離せない。ハッキングはそこらへんの力学を暗に指摘しています。特に子供たちをターゲットに「あなたの子供はこういう病気なので、特別な処置が必要です」と言われたら、多くの親は心配でお金を払ってしまいます。

養老 だから俺は医療は受けないんだ。

書影『日本の歪み』(講談社現代新書)『日本の歪み』(講談社現代新書)
養老孟司・茂木健一郎・東 浩紀 著

茂木 養老先生はずっと健康診断も受けなかったのですよね。以前、TEDに参加したとき、会場の前で精神医療が患者を薬漬けにしていると主張している方々のデモンストレーションがあったのがとても印象的でした。日本人は従順なので、あまりそういう声は可視化されませんが、アメリカでは、製薬会社の姿勢と相まって、かなり知的に高度な議論が行われているように思います。検診を前提にした公衆衛生的な議論も、政治性を避けられないのかもしれません。

養老 僕が現職の頃は、東大医学部の医者の検診率は4割でした。医者の常識というか、過半数があんなもの意味ないと思っていたということです。いまは査定なんかに関わるからそうはいかないでしょうけれど。