北陸新幹線の延伸で注目される福井県・敦賀は、外国で亡命を余儀なくされた人々を受け入れてきた歴史がある。実は、敦賀~東京間の直通列車は100年以上も前に存在したのだ。当時の敦賀の街の様子や鉄道、海外渡航の事情をひもといてみよう(一部敬称略)。(乗り物ライター 宮武和多哉)
北陸新幹線の終点・敦賀は
欧州からの玄関口だった
2024年3月16日に北陸新幹線の金沢駅~敦賀駅間(約125km)が延伸開業した。東京駅から最短3時間8分で到着できるようになった福井県敦賀市では、開業に合わせて「つるが街波祭」が開催された。敦賀市出身の俳優・大和田伸也さん、歌手・西川貴教さんを招いてのオープニングセレモニーを封切りに各種イベントが開催され、多くの人々が訪れた。
敦賀市から東京方面の移動は乗り換えを要するため、首都圏に直通する新幹線の誘致は地元財界の悲願であった。しかし実は、敦賀~東京間の直通列車は100年以上も前に存在した。国際旅客船に接続して東京に向かう列車「欧亜国際連絡列車」だ。
欧亜国際連絡列車が運行していた時期(1912年~1941年頃)、海外からの移動手段は船と陸路しかなかった。こうした列車は「ボート・トレイン」(船車連絡列車)とも呼ばれ、フランス・パリと東京を鉄道と船で結ぶルートの一部として、ロシア・ウラジオストク港から敦賀港に入港する国際旅客船に接続し、敦賀港駅(1919年までは金ケ崎駅)から東京駅方面に直通していた。
1枚の切符でパリ~東京間を乗り継げるこのルートは、欧州から日本への最短経路でもあった。第2次近衛内閣の外相を務めた松岡洋右や、喜劇役者のチャーリー・チャップリン、詩人の与謝野晶子など各界の要人が、敦賀港駅から乗車したという。本記事では、乗客の一人である音楽家・セルゲイ・プロコフィエフの手記から、当時の様子を紹介したい。
プロコフィエフは祖国・ロシアで早くから作曲家として名を成したものの、ロシア革命による動乱で活動の場を失い、1918年5月に27歳で亡命を決断。敦賀から東京を経由して、米国に向かっている。彼の代表作「ロメオとジュリエット」内のメロディー(「モンタギュー家とキャピュレット家」)が、かつてソフトバンクのコマーシャルに採用されており、「予想外デス」というフレーズとともに、聞き覚えがある人も多いだろう。
小説家でもあったプロコフィエフの手記は、当時の日本の様子を細かく書きつづっている。この手記から、当時の敦賀の街の様子や鉄道、海外渡航の事情をひもといてみよう。