日本企業の「ケイレツ」は
オープンイノベーションの先駆け
日本企業は、限られたパートナーとの関係の中でではあるが、積極的にサプライヤーなどと研究開発活動を分担してきた。
オープン・イノベーションの提唱者であるカリフォルニア大学バークレー校のヘンリー・チェスブロウ教授もまた、2010年に日本の学術雑誌『研究 技術 計画』にて、日本企業はオープン・イノベーションに早くから取り組んできたと述べている。
パナソニック、ソニー、トヨタ、富士通、東芝、日本電気などの日本企業が、それぞれ関係の深いサプライヤー(いわゆるケイレツ)と研究開発を分担してきたと指摘しているのだ。
また、明治維新以降、日本および日本企業は、欧米諸国からさまざまな技術を導入し、世界の工場として生産・製造活動に注力するという時代が続いた。
日本企業は研究開発の努力の大部分を自社以外に頼ることでコストを抑え、安価で良質な製品を生産することによって利益を確保してきたのである。これも一つのオープン・イノベーションの姿だったといえなくもない。
さらに、日本企業における研究開発が一般的になった後も、当初それらの企業は諸外国に比べると規模の小さな研究施設しか用意できなかった。こうした不利を克服するため、日本では、企業や産業を超えた技術的な交流が盛んであった。
これに加えて、終戦後は軍需産業に対して規制がおこなわれたため、軍需産業に従事する技術者が自動車などの他産業へと移動した。たとえば、航空技術者が自動車産業に大量に移動するような状況が生まれた。
このあたりの事情は藤本隆宏『生産システムの進化論』(有斐閣)にくわしい。日本の高度経済成長期には、こうしてイノベーションの種が国内産業間を移動していったのである。
岩尾俊兵 著
そう考えてみると、日本企業は意図せずしてオープン・イノベーションの先進事例だったともいえる。
このように、日本企業はこれまでもオープン・イノベーションをおこなってきた。ただし、中央研究所のオープン化などに積極的だったわけではないため、「日本企業はこれまで、どのようなタイプのオープン・イノベーションが得意で、どのようなタイプのものは苦手としてきたのか」を、把握する必要があるだろう。
そうだとすれば、オープン・イノベーション化を進めるためにまず調べるべきは日本企業の歴史かもしれない。