競馬写真はイメージです Photo:PIXTA

キャリアの天井が見えてきた50代の男にとって、自己実現の機会はそうそう巡ってくるものではない。このまま家と職場を往復しながら、老いゆく自分を見つめるだけでいいのだろうか。……そんな思いにふける諸氏にとって、公営ギャンブルは新たな自分を見つけるきっかけとなるかもしれない。そこには、必死の競技参加者たちがつむぐ小さな「感動」があり、負けて悔しい観戦者たちの大きな「苦渋」がある。※本稿は、藤木TDC『はじめて行く公営ギャンブル――地方競馬、競輪、競艇、オートレース入門』(筑摩書房)の一部を抜粋・編集したものです。

ハズレが続いた時にどう打開するか
「苦渋」と出会うためのエンタメ

 投票を続けてもぜんぜん的中がなく、財布の中の金が減って気持ちが暗くなったり、泣きたくなったりする瞬間のことを「腐る」といいます。レースの展開が自分の予想とまったく逆だったり、ゴール直前で着順が変わって取れたと思った的中が逃げていく、そんなことが続くと人は腐っていきます。

 この腐ってきた時間とどのようにつきあうか、それが公営ギャンブル最大の課題です。

 私の公営ギャンブル人生のほとんどは腐ることばかりでした。とても苦しい、悲しい、自己否定の長い時間。これは誰にでも訪れます。

 そんな時は場内の食堂で何かつまんでみたり、一般席のスタンドから指定席に移動して気分を変えてみたりします。あるいは一時間程度、競技場から離れて周辺をぶらぶら散歩したりしてみます。幸い入場料をとる競技場でも、いったん外出するのは自由で、出口のゲートにいる係員が「再入場券」というチケットをくれ、再び入場の時にそれを渡せば無料です。

 まあ気分転換しても、予想が的中するわけでもありません。気持ちの奥に苦しみと悲しみだけが残ります。俺はなんて才能のない人間か、ツキのない人間かと。

 その意味で、私にとって公営ギャンブルとは「苦渋」と出会うためのエンタメだったといえるかもしれません。現在、多くのエンタメは「感動」と出会うためにあるように思えます。映画もテレビも小説も、音楽も、どこかに「感動」のエッセンスがあり、人々はそれを求めてエンタメに接しているようです。

 公営ギャンブルにも「感動」の要素はあります。馬であれば調教や騎乗技術、血統、競輪、競艇、オートであれば選手の心身の鍛錬と技術の研鑽。その結果としてのトップクラスの競走馬や選手たちが競走するレースは、スポーツのビッグイベントに匹敵する緊張と感動、歓喜があります。そして、それは現実のレースでなくとも、小説などでも味わうことができます。