江戸時代に入って幕藩体制が確立されると、各地に300近い藩が成立した。そうした状況下での武士の教育体制は、江戸と地方で異なっていた。幕府は江戸にいる幕臣の子息に朱子学を奨励した一方、地方の教育は藩の自主性に委ねた。地方でその現場を担ったのが「藩校」である。現代の大手学習塾も顔負けの「等級制」まで採用していたとされる、藩校の実態と功罪を見ていこう。(歴史ライター・編集プロダクション「ディラナダチ」代表 小林 明)
忠義を重んじるはずの武士だが…
かつては「裏切り」が当たり前!?
戦国時代の武士は、主君を裏切るなど日常茶飯事だった。「武士は主君に絶対服従するものだ」というイメージを持つ人が多いかもしれないが、当時の忠誠心は一過性の場合も多く、生き残るためには主(あるじ)を変えるのもいとわなかった。
しかし、江戸時代に入り平和な世が訪れると、武士の忠誠心が一過性では困るようになった。というのも、江戸時代の社会は、将軍を頂点に、その下に諸大名がいて、さらに藩の幹部と下級藩士が連なる――というピラミッド型社会を構築することで、世の安定が保たれていた。武士の忠誠心が長期的であってくれないと、その仕組みを維持することが難しかったのだ。
とはいえ、口約束で「裏切らないでくれ」と言ったところで効力は乏しい。社会全体で幕府への忠節を保つための法制度や政策の整備が急務だった。それには、法や倫理に基づいて政治を運営する「官僚」の存在が不可欠だった。そこで江戸幕府は、武士の官僚化に着手したのである。
そうなったら、地方の藩も倣(なら)わざるを得ない。しかし、江戸に比べて地方は人材が不足していたため、まず人材育成が先だった。こうして全国的に教育熱が広がりを見せ始め、各地で「藩校」の設立が進められていった。
藩校の教育が目指したものは、地方武士の官僚化だったのである。藩主が参勤交代で江戸にいて、長期にわたり不在である中、次世代の藩政の中核を担う人材を育成するのが、藩校の役割だった。
ただし、藩校は寺子屋とは異なり、生徒は「藩士とその子弟」が多かった。現代の大手進学塾のように、能力に応じた「等級制」が採用され、試験に合格できなければ上へ進めないシステムになっていた時期もある。
そんな藩校は、どのような歴史を経て成熟していき、具体的に何を教えていたのか。次ページから詳しく解説する。