組織への貢献を
求められる
そのたびに謝罪や家臣の直訴により許されましたが、それまで自由に活動していた政宗にとっては、気苦労も多かったことでしょう。
そのうえ、文禄・慶長の役(壬辰・丁酉の倭乱=朝鮮出兵、1592~93・97~98年)などの負担を強いられています。
秀吉の死後、徳川家康と石田三成の対立が始まりますが、政宗は娘の五郎八姫と家康の息子・松平忠輝(1592~1683年)の結婚を進めたりして、早い段階から家康の味方をします。
上司に目をつけられたとき
どう振る舞うか
その際、家康から100万石(当時の領土は58万石)を与えると約束されますが、関ヶ原の戦いでの功績が十分でなく、また不審な一揆に関与したとして、この約束は守られませんでした。
しかし、政宗は家康の決定を受け入れ、以後、仙台藩の初代藩主として家康が開いた江戸幕府に忠義をつくします。
具体的には、大坂の陣(1614~15年)などの軍事負担や江戸城の普請といった建設工事など、幕府からの求めに応じています。
上司への配慮を学ぶ
また、将軍の側近であった土井利勝(1573~1644年)などの幕府首脳やほかの大名との飲食も交えた交際を怠らず、さまざまな情報を集めるとともに、いざというときに助けてもらえる関係を築いていました。
ここまで気をつかったのは、過去の実績などから、家康や幕府に警戒されていることを政宗自身が認識していたからだと思います。
とくに秀吉の時代に何度も危ない目にあった政宗としては、実績や実力があるものほど、通常以上に気をつかわないといけないこと、ささいなことが命とりとなることを学んでいたのです。
どんな状況でも諦めず
さらなる高みを目指す
ただし、政宗は関ヶ原の戦い以降、幕府に気をつかっていただけではありません。領内の新田開発を積極的に進めました。
その結果、仙台藩は政宗の死後、実質100万石となります。家康から与えられなかった100万石を、自分の力で実現したのです。
自分よりも上の立場の人や組織に気をつかいつつ、どんな状況でも諦めず、さらなる高みに向けて挑戦し続ける。
若いころに天下とりを目指した気迫は、政宗の生涯にわたって色あせることがありませんでした。そこにこそ「独眼竜」政宗の魅力があるのではないでしょうか。
※本稿は『リーダーは日本史に学べ』(ダイヤモンド社)より一部を抜粋・編集したものです。